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*超われわれ史★高度成長の終焉と田中政権 **沖縄返還交渉 1951年のサンフランシスコ講和条約では、その第3条で、沖縄・奄美大島・小笠原諸島などの地域に対して、日本に主権は存するが、米国が施政権を有することを定めていた。ただし、これらの地域の将来の地位に関しては、条約調印国すべての合意を必要とせず、日米間で協議が可能、という合意がなされていた。1953年に日米間の協議により奄美大島の返還が実現したが、沖縄については、米軍基地の戦略的重要性の観点から、米国は長期保有の意向であった。そして、日本本土の基地が整理縮小されるに伴い、沖縄の基地は拡大していった。 1965年、訪米した佐藤首相はラスク国務長官に対してはじめて沖縄問題に言及した。このときは、ラスクは中国の核実験に触れ、アジアの新たな緊張関係を強調し、返還を問題としなかった。 同年、戦後の首相としてはじめて沖縄を訪問した佐藤首相は、「アメリカの手先佐藤帰れ」というプラカードを掲げたデモ隊に囲まれて予定のホテルに到着できず、米軍基地内での宿泊を余儀なくされた。この訪沖から帰ったのち、佐藤は、首相直属の沖縄関係閣僚協議会を設置し、さらに67年に沖縄問題等懇談会を設置し、施政権返還の条件等を議論させた。 67年11月の二度目の訪米で、佐藤首相はジョンソン大統領と、「両三年内に」沖縄の施政権返還の期日を決定するという合意を行った。このときには返還の際の基地の扱いについて具体的な取り決めはなされていなかった。 問題は、在沖米軍も、安保条約のうたう「事前協議」の制約に服するという意味で「本土なみ」とされるかどうか、「作らず」「持たず」「持ち込ませず」の非核三原則を沖縄にも適用して核兵器を撤去し、持ち込ませないようにさせられるかどうかという二点であった。 69年発足のニクソン政権は、緊急時の韓国・台湾防衛にあたっては、安保条約の事前協議制の適用を緩和するという日本側の了解を条件に、「核抜き・本土並み」を認めることとした。 69年11月の佐藤・ニクソンによる日米共同宣言は、「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」であり、「台湾地域の平和と安全の維持も日本の安全にとってきわめて重要」であると述べる。日本は沖縄返還の代償として、より深く米国の東アジア軍事戦略に組み込まれることになったのである。 佐藤は、民意を問うべく、米国からの帰国後すぐに衆院を解散した。69年12月の総選挙の結果は、自民党の大勝、社会党の敗北であった。 **70年安保 1970年(昭和45年)6月23日、日米安全保障条約は、自動延長された。新左翼諸党派は、これを絶 対阻止するとして街頭闘争を展開したが、前年の東大闘争鎮圧以来、大学への機動隊導入ー正常化が相次ぎ、新左翼運動の退潮は明らかであった。社共両党も反対を叫んだが、院外の運動では新左翼の動員と過激さに圧倒され、60年安保の時のような院内外の連携した闘争が組めず、結局、国会政治的には、「無風」で安保は延長されてしまった。 **昭和元禄 ちまたでは、「人類の進歩と平和」をテーマにした大阪万博が話題となり、半年の期間中、6400万もの観客を集めた。「昭和元禄」=高度成長のユーフォリアは頂点に達していた。新左翼による騒動も、大衆にとってはそれにアクセントを添えるひとつの風俗であった。 **公害 そこに影となって忍び寄ってきたものは、公害問題だった。水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの原因が企業の排水・排ガスにあることはもはや誰の目にも明らかになっていた。川や海岸はヘドロに埋まり異臭を放ち、光化学スモッグで人々が倒れるという、終末的様相を帯びてきたのである。国はようやく重い腰を上げ、70年11月の臨時国会=「公害国会」は、公害関係14法案が成立、公害防止法制が一応整ったのである。 **沖縄返還 次は沖縄だった。71年10月に始まった沖縄国会では、社会党・公明党・民社党は、「核抜き本土並み」は欺瞞であるとして返還協定に反対し、再交渉を求めた。自民党は特別委員会で強行採決。国会空転に続いて院外活動が拡大した。沖縄ではゼネスト、東京では過激派が暴れた。本会議審議に戻るようにとの自民党の説得に対して、公明党が、「非核三原則及び沖縄基地縮小に対する決議案に政府・自民党が賛成するなら」という歩み寄りを示し、民社党がこれに同調。本会議は社共両党欠席で開かれ、返還協定は成立した。沖縄復帰が実現したのは、72年5月12日であった。 **佐藤退陣 翌72年1月には日米繊維協定が米国サクラメントで調印された。田中角栄通産相の功績であった。懸案の処理も終わって、佐藤政権の終末を世論も政界も噂し始めた。佐藤政権ではどうにもならないもの、それは日中国交回復の問題だった。 機は徐々に熟しつつあった。70年の末には、超党派の国会議員379人による日中国交回復促進議連が立ち上がり、自民党内の国交回復派も増えて、野党とも連携して佐藤政権に揺さぶりをかけていた。72年の年初には初の超党派議員団が訪中、「国交回復をめざす共同声明」が発表された。 そして、2月21日、佐藤政権にとどめを刺す一撃が米国から放たれた。ニクソン大統領が中国を電撃訪問し、翌日、米中が国交正常化で合意したのであった(上海コミュニケ)。日本は何も知らされていなかった。まったくの頭越しであった。 ついに6月17日、佐藤首相は、引退表明を行った。佐藤は、自分を厳しく批判した新聞の記者の退席を求め、ひとりテレビカメラに向かってしゃべるという異例の発表であった。 佐藤は、福田赳夫を後継者に考えていたが、田中は、後を襲うために周到な布陣をすでに敷いていた。 **田中政権誕生 田中と宏池会会長・大平正芳は、昔からの盟友であった。72年1月には、中曽根派を加えた三派連合が結成され、田中は、実弾攻撃、すなわち国会議員に対する札束攻勢をかけて支持を広げ、佐藤派の中身を隠密裏に田中派に変えていった。世情は、浅間山荘事件、テルアビブ空港乱射事件などで騒然としていたころである。 総裁選立候補は、田中、福田、大平、三木(第一回投票での得票順)で、田中・三木・大平は、日中国交回復を掲げて三派連合を結んでいた。決選投票は、田中282票、福田190票だった。 72年7月6日、田中内閣が発足。大平外相、中曽根通産相、三木は副総理格の無任所相。内閣そのものは論功行賞型の編成であったが、「決断と実行」を掲げた田中は54歳、初の小学校卒の総理大臣であった。その前月、田中は、斬新な国土プラン「日本列島改造論」を世に問うていて、ベストセラーとなった。直後の内閣支持率は60%を超え、歴代最高。まさにブームの様相であった。 **日中国交正常化 野党もマスコミも日中復交を後押しした。ハードルは、台湾政府、及びそれと結んだ日華条約の扱いにあった。自民党の親台湾派は「台湾を切り捨てるな」と言い、外務省は日華条約の廃棄という扱いに難色を示した。 7月25日、竹入義勝公明党委員長が、田中首相の依頼を受けて北京に飛び、周恩来首相と会談。三日間にわたる会談の末、周は、中国側が従来の主張から大きく譲歩する内容の、日中復交の条件8項目を竹入に示した。この条件を記した「竹入メモ」は、日中復交のカギとなった。 日華条約の扱いを巡る最終的な詰めを残して、田中・大平は、9月に北京に飛んだ。交渉は難航したが、ついに29日妥結。日中共同声明が調印され、国交正常化が実現した。 **日本列島改造論 田中の「日本列島改造論」は、ある意味では先見的な政策であった。 環境悪化や交通地獄など、都市環境は悪くなるばかりで、その一方で地方の過疎化が進んでいた。そこで、都市から地方に工場を再配置し、それを呼び水として地方に中核都市を建設して人口を逆流させる。そのために、日本列島の主要地域を一日行動圏にするような効率的な交通ネットワークをつくる。また、これまでの重化学工業から、公害を出さない知識集約型の産業構造に転換すると同時に、成長によって拡大した経済力を国民の福祉に活用することを説いていた。 「改造論」は、政界にも官界にも産業界にも評判がよかった。官僚たちはこの御輿を担ぐことで各省庁の権限と事業の拡大をもくろみ、会社は大規模な公共事業を受注しようと省庁に群がった。政治家たちはおらが選挙区に公共事業をと奔走した。 **72年総選挙 田中は、この政策を実現するために、さらに与党を伸ばそうと、72年11月、衆議院を解散した。 結果は、田中の期待に反して、自民党は、前回の288から271に議席に減らした。前回惨敗した社会党が118議席に回復、共産党は14議席から38議席に大躍進した。社共は、列島改造論を「大資本優先」「公害ばらまき」と攻撃し、自民党が強気で都市部にたくさん立てた候補を破った。公明党は、47議席から29議席と大きく後退した。公明党の敗北は、69年末に発覚した言論出版問題と、そのために政教分離方針を打ち出した影響が出たと見られる。 **狂乱物価 71年夏、経常赤字に苦しむアメリカは、金とドルの交換を停止した(ドルショック)。このため、円高となり、ドルが日本国内に流入した。これによって過剰流動性が生まれ、商社などは、列島改造論に便乗して土地の買い占めに走った。そのため、72年に地価は30.9%の高騰を記録。さらに大手商社らは、大豆・生糸・羊毛・木材・米などあらゆる産品に手を伸ばして買い占め、売り惜しみを行い、物価は急騰した。一方で、田中内閣初の73年度予算は、戦後最高の伸び率24.6%という超大型予算で、インフレをますます昂進させた。国民の憤激は内閣に向かい、田中内閣支持率は27%まで急降下した。 さらに追い打ちをかけるように、秋に、第4次中東戦争が勃発、OPEC(石油輸出国機構)が原油価格を30%上げた(石油ショック)。これが投機熱に火を注ぎ、物価をさらに激しく押し上げた。店頭からトイレットペーパー、ちり紙、洗剤などが消え、消費者はパニックに陥った。 **田中内閣失速 72年の総選挙での自民党敗北から、田中は、自民党政権の安定のため、小選挙区制導入の必要性を痛感した。彼は猛烈な勢いで選挙制度改革のとりまとめにかかったが、野党は猛反対して、国会審議拒否に出、院外運動を進めた。与党内にも慎重論が出て、結局田中のもくろみは挫折した。空転ばかりのこの国会での法案成立率はさんざんであった。列島改造関係の法案はほとんど通らなかった。73年11月、田中内閣の支持率は22%にまで落ちていた。 狂乱物価のさなか、愛知蔵相の急死をきっかけに田中は内閣を改造、福田に蔵相就任を懇請した。福田は、田中から積極財政政策の転換の約束をとりつけて、蔵相就任を受け、「総需要抑制」へと舵を切った。 74年7月の参議院選挙は、与野党逆転もあり得る情勢で、自民党は「自由社会を守れ」と呼号し、金をばらまき、企業に動員をかけた。多数のタレント候補を立てたが、結果はまたもや自民党の敗北であった。自民62、野党は60で、逆転は起こらなかったが、「保革伯仲」時代に突入した。 この敗北を受けて、まず三木が田中の金権体質を批判して副総理を辞任、福田蔵相が後に続いた。8月には、企業ぐるみ選挙・金権選挙批判に懲りた経団連(土光会長)が、自民党への政治献金をやめると発表した。 **田中退陣、三木政権誕生 10月、立花隆執筆の「田中角栄研究 金脈と人脈」を掲載した文藝春秋11月号が発行された。田中のファミリー企業による土地転がしと裏金づくりのからくりを暴いたものだった。反響は意外にも日本のマスコミではなく海外のメディアから上がった。外人記者クラブで演説に立った田中に、金脈についての質問の矢が浴びせられ、田中は苦しげな釈明を繰り返した。翌日の国内各紙がこれを大きく取り上げ、田中金脈問題は政治化した。 外人記者クラブでの会見から約一ヶ月後、個人に関わる問題で政治を混迷させて、として、田中は退陣を表明した。 三木に替わって副総裁になっていた椎名悦三郎は、公選ではなく話し合いで後継を決めようと動いた。椎名は「裁定」によって三木を指名した。池田内閣時代、党近代化の答申をまとめ、また金権と無縁であると思われているためであった。抵抗を示したのは大平だけで、結局自民党両院議員総会は全会一致で三木を新総裁に選んだ。 67歳、小派閥を率いて他派閥との合従連衡を繰り返して生き延びてきた三木であったが、クリーンなイメージが、田中金権政治への囂々たる非難の中で、首班への道を開いた。 **コメント #comment(vsize=2,nsize=20,size=70)    ↑ご自由にコメントをお書き下さい。
*超われわれ史★高度成長の終焉と田中政権 **沖縄返還交渉 1951年のサンフランシスコ講和条約では、その第3条で、沖縄・奄美大島・小笠原諸島などの地域に対して、日本に主権は存するが、米国が施政権を有することを定めていた。ただし、これらの地域の将来の地位に関しては、条約調印国すべての合意を必要とせず、日米間で協議が可能、という合意がなされていた。1953年に日米間の協議により奄美大島の返還が実現したが、沖縄については、米軍基地の戦略的重要性の観点から、米国は長期保有の意向であった。そして、日本本土の基地が整理縮小されるに伴い、沖縄の基地は拡大していった。 1965年、訪米した佐藤首相はラスク国務長官に対してはじめて沖縄問題に言及した。このときは、ラスクは中国の核実験に触れ、アジアの新たな緊張関係を強調し、返還を問題としなかった。 同年、戦後の首相としてはじめて沖縄を訪問した佐藤首相は、「アメリカの手先佐藤帰れ」というプラカードを掲げたデモ隊に囲まれて予定のホテルに到着できず、米軍基地内での宿泊を余儀なくされた。この訪沖から帰ったのち、佐藤は、首相直属の沖縄関係閣僚協議会を設置し、さらに67年に沖縄問題等懇談会を設置し、施政権返還の条件等を議論させた。 67年11月の二度目の訪米で、佐藤首相はジョンソン大統領と、「両三年内に」沖縄の施政権返還の期日を決定するという合意を行った。このときには返還の際の基地の扱いについて具体的な取り決めはなされていなかった。 問題は、在沖米軍も、安保条約のうたう「事前協議」の制約に服するという意味で「本土なみ」とされるかどうか、「作らず」「持たず」「持ち込ませず」の非核三原則を沖縄にも適用して核兵器を撤去し、持ち込ませないようにさせられるかどうかという二点であった。 69年発足のニクソン政権は、緊急時の韓国・台湾防衛にあたっては、安保条約の事前協議制の適用を緩和するという日本側の了解を条件に、「核抜き・本土並み」を認めることとした。 69年11月の佐藤・ニクソンによる日米共同宣言は、「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」であり、「台湾地域の平和と安全の維持も日本の安全にとってきわめて重要」であると述べる。日本は沖縄返還の代償として、より深く米国の東アジア軍事戦略に組み込まれることになったのである。 佐藤は、民意を問うべく、米国からの帰国後すぐに衆院を解散した。69年12月の総選挙の結果は、自民党の大勝、社会党の敗北であった。 **70年安保 1970年(昭和45年)6月23日、日米安全保障条約は、自動延長された。新左翼諸党派は、これを絶 対阻止するとして街頭闘争を展開したが、前年の東大闘争鎮圧以来、大学への機動隊導入ー正常化が相次ぎ、新左翼運動の退潮は明らかであった。社共両党も反対を叫んだが、院外の運動では新左翼の動員と過激さに圧倒され、60年安保の時のような院内外の連携した闘争が組めず、結局、国会政治的には、「無風」で安保は延長されてしまった。 **昭和元禄 ちまたでは、「人類の進歩と平和」をテーマにした大阪万博が話題となり、半年の期間中、6400万もの観客を集めた。「昭和元禄」=高度成長のユーフォリアは頂点に達していた。新左翼による騒動も、大衆にとってはそれにアクセントを添えるひとつの風俗であった。 **公害 そこに影となって忍び寄ってきたものは、公害問題だった。水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの原因が企業の排水・排ガスにあることはもはや誰の目にも明らかになっていた。川や海岸はヘドロに埋まり異臭を放ち、光化学スモッグで人々が倒れるという、終末的様相を帯びてきたのである。国はようやく重い腰を上げ、70年11月の臨時国会=「公害国会」は、公害関係14法案が成立、公害防止法制が一応整ったのである。 **沖縄返還 次は沖縄だった。71年10月に始まった沖縄国会では、社会党・公明党・民社党は、「核抜き本土並み」は欺瞞であるとして返還協定に反対し、再交渉を求めた。自民党は特別委員会で強行採決。国会空転に続いて院外活動が拡大した。沖縄ではゼネスト、東京では過激派が暴れた。本会議審議に戻るようにとの自民党の説得に対して、公明党が、「非核三原則及び沖縄基地縮小に対する決議案に政府・自民党が賛成するなら」という歩み寄りを示し、民社党がこれに同調。本会議は社共両党欠席で開かれ、返還協定は成立した。沖縄復帰が実現したのは、72年5月12日であった。 **佐藤退陣 翌72年1月には日米繊維協定が米国サクラメントで調印された。田中角栄通産相の功績であった。懸案の処理も終わって、佐藤政権の終末を世論も政界も噂し始めた。佐藤政権ではどうにもならないもの、それは日中国交回復の問題だった。 機は徐々に熟しつつあった。70年の末には、超党派の国会議員379人による日中国交回復促進議連が立ち上がり、自民党内の国交回復派も増えて、野党とも連携して佐藤政権に揺さぶりをかけていた。72年の年初には初の超党派議員団が訪中、「国交回復をめざす共同声明」が発表された。 そして、2月21日、佐藤政権にとどめを刺す一撃が米国から放たれた。ニクソン大統領が中国を電撃訪問し、翌日、米中が国交正常化で合意したのであった(上海コミュニケ)。日本は何も知らされていなかった。まったくの頭越しであった。 ついに6月17日、佐藤首相は、引退表明を行った。佐藤は、自分を厳しく批判した新聞の記者の退席を求め、ひとりテレビカメラに向かってしゃべるという異例の発表であった。 佐藤は、福田赳夫を後継者に考えていたが、田中は、後を襲うために周到な布陣をすでに敷いていた。 **田中政権誕生 田中と宏池会会長・大平正芳は、昔からの盟友であった。72年1月には、中曽根派を加えた三派連合が結成され、田中は、実弾攻撃、すなわち国会議員に対する札束攻勢をかけて支持を広げ、佐藤派の中身を隠密裏に田中派に変えていった。世情は、浅間山荘事件、テルアビブ空港乱射事件などで騒然としていたころである。 総裁選立候補は、田中、福田、大平、三木(第一回投票での得票順)で、田中・三木・大平は、日中国交回復を掲げて三派連合を結んでいた。決選投票は、田中282票、福田190票だった。 72年7月6日、田中内閣が発足。大平外相、中曽根通産相、三木は副総理格の無任所相。内閣そのものは論功行賞型の編成であったが、「決断と実行」を掲げた田中は54歳、初の小学校卒の総理大臣であった。その前月、田中は、斬新な国土プラン「日本列島改造論」を世に問うていて、ベストセラーとなった。直後の内閣支持率は60%を超え、歴代最高。まさにブームの様相であった。 **日中国交正常化 野党もマスコミも日中復交を後押しした。ハードルは、台湾政府、及びそれと結んだ日華条約の扱いにあった。自民党の親台湾派は「台湾を切り捨てるな」と言い、外務省は日華条約の廃棄という扱いに難色を示した。 7月25日、竹入義勝公明党委員長が、田中首相の依頼を受けて北京に飛び、周恩来首相と会談。三日間にわたる会談の末、周は、中国側が従来の主張から大きく譲歩する内容の、日中復交の条件8項目を竹入に示した。この条件を記した「竹入メモ」は、日中復交のカギとなった。 日華条約の扱いを巡る最終的な詰めを残して、田中・大平は、9月に北京に飛んだ。交渉は難航したが、ついに29日妥結。日中共同声明が調印され、国交正常化が実現した。 **日本列島改造論 田中の「日本列島改造論」は、ある意味では先見的な政策であった。 環境悪化や交通地獄など、都市環境は悪くなるばかりで、その一方で地方の過疎化が進んでいた。そこで、都市から地方に工場を再配置し、それを呼び水として地方に中核都市を建設して人口を逆流させる。そのために、日本列島の主要地域を一日行動圏にするような効率的な交通ネットワークをつくる。また、これまでの重化学工業から、公害を出さない知識集約型の産業構造に転換すると同時に、成長によって拡大した経済力を国民の福祉に活用することを説いていた。 「改造論」は、政界にも官界にも産業界にも評判がよかった。官僚たちはこの御輿を担ぐことで各省庁の権限と事業の拡大をもくろみ、会社は大規模な公共事業を受注しようと省庁に群がった。政治家たちはおらが選挙区に公共事業をと奔走した。 **72年総選挙 田中は、この政策を実現するために、さらに与党を伸ばそうと、72年11月、衆議院を解散した。 結果は、田中の期待に反して、自民党は、前回の288から271に議席に減らした。前回惨敗した社会党が118議席に回復、共産党は14議席から38議席に大躍進した。社共は、列島改造論を「大資本優先」「公害ばらまき」と攻撃し、自民党が強気で都市部にたくさん立てた候補を破った。公明党は、47議席から29議席と大きく後退した。公明党の敗北は、69年末に発覚した言論出版問題と、そのために政教分離方針を打ち出した影響が出たと見られる。 **狂乱物価 71年夏、経常赤字に苦しむアメリカは、金とドルの交換を停止した(ドルショック)。このため、円高となり、ドルが日本国内に流入した。これによって過剰流動性が生まれ、商社などは、列島改造論に便乗して土地の買い占めに走った。そのため、72年に地価は30.9%の高騰を記録。さらに大手商社らは、大豆・生糸・羊毛・木材・米などあらゆる産品に手を伸ばして買い占め、売り惜しみを行い、物価は急騰した。一方で、田中内閣初の73年度予算は、戦後最高の伸び率24.6%という超大型予算で、インフレをますます昂進させた。国民の憤激は内閣に向かい、田中内閣支持率は27%まで急降下した。 さらに追い打ちをかけるように、秋に、第4次中東戦争が勃発、OPEC(石油輸出国機構)が原油価格を30%上げた(石油ショック)。これが投機熱に火を注ぎ、物価をさらに激しく押し上げた。店頭からトイレットペーパー、ちり紙、洗剤などが消え、消費者はパニックに陥った。 **田中内閣失速 72年の総選挙での自民党敗北から、田中は、自民党政権の安定のため、小選挙区制導入の必要性を痛感した。彼は猛烈な勢いで選挙制度改革のとりまとめにかかったが、野党は猛反対して、国会審議拒否に出、院外運動を進めた。与党内にも慎重論が出て、結局田中のもくろみは挫折した。空転ばかりのこの国会での法案成立率はさんざんであった。列島改造関係の法案はほとんど通らなかった。73年11月、田中内閣の支持率は22%にまで落ちていた。 狂乱物価のさなか、愛知蔵相の急死をきっかけに田中は内閣を改造、福田に蔵相就任を懇請した。福田は、田中から積極財政政策の転換の約束をとりつけて、蔵相就任を受け、「総需要抑制」へと舵を切った。 74年7月の参議院選挙は、与野党逆転もあり得る情勢で、自民党は「自由社会を守れ」と呼号し、金をばらまき、企業に動員をかけた。多数のタレント候補を立てたが、結果はまたもや自民党の敗北であった。自民62、野党は60で、逆転は起こらなかったが、「保革伯仲」時代に突入した。 この敗北を受けて、まず三木が田中の金権体質を批判して副総理を辞任、福田蔵相が後に続いた。8月には、企業ぐるみ選挙・金権選挙批判に懲りた経団連(土光会長)が、自民党への政治献金をやめると発表した。 **田中退陣、三木政権誕生 10月、立花隆執筆の「田中角栄研究 金脈と人脈」を掲載した文藝春秋11月号が発行された。田中のファミリー企業による土地転がしと裏金づくりのからくりを暴いたものだった。反響は意外にも日本のマスコミではなく海外のメディアから上がった。外人記者クラブで演説に立った田中に、金脈についての質問の矢が浴びせられ、田中は苦しげな釈明を繰り返した。翌日の国内各紙がこれを大きく取り上げ、田中金脈問題は政治化した。 外人記者クラブでの会見から約一ヶ月後、個人に関わる問題で政治を混迷させて、として、田中は退陣を表明した。 三木に替わって副総裁になっていた椎名悦三郎は、公選ではなく話し合いで後継を決めようと動いた。椎名は「裁定」によって三木を指名した。池田内閣時代、党近代化の答申をまとめ、また金権と無縁であると思われているためであった。抵抗を示したのは大平だけで、結局自民党両院議員総会は全会一致で三木を新総裁に選んだ。 67歳、小派閥を率いて他派閥との合従連衡を繰り返して生き延びてきた三木であったが、クリーンなイメージが、田中金権政治への囂々たる非難の中で、首班への道を開いた。 [[【超われわれ史】]] 目次へ **コメント #comment(vsize=2,nsize=20,size=70)    ↑ご自由にコメントをお書き下さい。

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