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NOTカリスマ職員の「振り返る自治体と私」日記
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匿名ユーザー
NOTカリスマ職員の「振り返る自治体と私」日記
2004年05月01日
NOTカリスマ職員の「振り返れば自治体」日記(1)
1.この連載の趣旨
本日から、性懲りもなく新しい連載を始めさせていただきます。「NOTカリスマ職員」こと某自治体の職員である私が、これまでのつたない自分の人生を振り返って、自治体や自治体施策への思いを振り返ってみたいと思っております。趣旨としては、自治体に入るまでは自治体の外部者であり顧客として感じたこと、自治体に入ってからは自らが市民の立場でサービスを受けるときに自治体施策をどのように感じたことを自治体職員以外の知人から聞いた話も含め、第三者的に綴っていきたいと思います。そのことで、自治体内部の行政評価(自己評価)だけでなく、自治体や自治体施策が世の中でどのように捉えられ、正すべき点がないのかを見つめたいと思います。なお、それぞれのライフステージでのことですから、現在既に是正されていることがあれば、ご容赦下さい。
2.自治体の存在感が薄い幼少期
私は、X県A市で生まれました。A市は旧財閥Bグループ発祥の地である「C銅山」の精錬所などを端緒として、B化学、B金属鉱山、B重機械工業などBグループの「企業城下町」として成長した町です。当時で人口は13万人ほどで今もそう変わっていないと思います。
私の父親もB系企業に勤務するサラリーマンでしたので、会社の社宅に住み、私の周囲(近所のおじさん・おばさん・ともだち)は、ほとんど全てBグループの関係者でした。
ですから幼少期の生活は、ほとんどBグループの企業が作ったインフラに支えられていました。
まず、住宅はただ同然(ボロ家)の社宅でした。また周囲一帯は全て社有地でしたので、道路も公園も用水路、その他プールやグラウンドもすべて企業が作ったものです。また通っていた幼稚園も住友系企業から寄付を受けて設立された学校法人が運営していました。生活まるごと、企業に支えられていたのです。
このような企業城下町(例:室蘭市、釜石市、日立市、豊田市、舞鶴市、玉野市、福山市、因島市、北九州市、佐世保市、延岡市など)は全国にありますが、昭和30年代から40年代にかけては、どの街もだいたい同じような状況だったのではないでしょうか。そのような街の自治体では、企業が調子が良いときは税収も上がるうえ、インフラ整備などの多くも企業任せでよく、はっきりいって何もしなくても町全体には何ら問題がない状況でした。
また、企業の社員でない市民も、企業や社員向けの商売をして生計を立てて暮らし、また漁民や農民も公害による被害を理由に得られる補償金で暮らしていた人が多い状態です。また、A市では勇壮な「太鼓台」が市内を練り歩く四国三大まつりと称される「太鼓まつり」(10月16日~18日)が開かれますが、数千万円かかる太鼓台の費用も企業からの寄付で賄われていた地区もあったと思います。つまり町全体が企業の丸抱え状態にありました。
このような街に「住民自治」が育つはずはありません。また、自らの街への愛着よりも当然ながら企業への求心力が高まります。昭和50年代に入って素材産業中心のS系企業は、石油ショックや過剰供給・設備投資による構造不況、円高・工場の海外流出などにより業績が低迷すると、街の活気も一気になくなりました。中心地の商店街は「シャッター街」と化し、大手百貨店、スーパーも次々と撤退しました。一般市民は、自分たちで街を盛り上げようという意欲もノウハウもないわけですから、ただただ街の衰退をなげくしかないのです。このように私の幼少期を過ごした街は、企業の衰退とともに元気をなくしてしまったのですが、その間、市役所は何ができたでしょうか。現在の財政状況を調べると極めて健全です。それはX県の自治体全般に言えることなのですが、起債制限比率や経常収支率は自らの自治体と比較すると、うらやましいほど低いのです。
これは何を意味するかというと、あまり積極的に仕事をしなかったということです。自らの自治体のように超積極的に仕事を拡げていった結果墓穴を掘った自治体と対極の「超消極的自治体」の姿がそこにありました。長く革新自治体が続きインフラ整備に消極的であったほか、B系企業の手厚い福利政策により、福祉も充実させる必要がなかったのです。この姿は都市銀行であるE銀行の姿にダブります。E銀行はバブル期の消極的な姿勢が功を奏して不良債権比率が低く、一躍トップバンクの地位につきましたが、不良債権処理に目途がつきこれから攻めの経営が求められるとき、明確な戦略が立てられなくなっています。自治体にも言えることですが、本当に「トップ」であるか、単に「周回遅れ」であるかを理解する必要があります。
現在でも同市に両親が住むため、年に数度帰省しますが、私が同市を去った30年前とほとんど変わらない姿に「ノスタルジー」を感じるものの、「他山の石」にせざるを得ない惨状には目を覆いたくなります。
ここで感じる自治体としての必要な役割は、中長期的な視点で街の方向性を提示し、そのための施策を主体的に推進するとともに、市民が傍観者でなく自らが街の活性化の主役である意識を植え付けていくことです。街の「シンクタンク」「ファシリテーター」としての自治体の責任は重いと感じました。
2004年05月08日
NOTカリスマ職員の「振り返れば自治体」日記(2)
●顧客のいない「公立教育」
★5月1日日記の続きです。
1.A市での公立教育で感じたこと
私がA市で公立小学校の教育を受けたのは、昭和40年代
後半です。市の中心部にあり、4年生の時に創立100周年を
迎えた歴史ある学校でした。いつも帰省した際、小4のときに埋めたタイムカプセルの記念碑を見に行きます。幼いころの記憶とあと23年後にタイムカプセルを開封する時期の自分のことを想像しながら、しばし過去と未来を行き来する時間です。
過去の記憶をたどる時、暗くなるまで遊び続けた自分の姿と子供心にもベストを尽くしていないと感じた教師の姿が思い出されるのです。
その頃のA市の教育現場は、市長が教職員組合の出身者であったこともあり、「組合王国」の時代でした。担任の先生はよく休むし、その理由を両親に聞くと「どっかでさぼっているんだろ。」と吐き捨てるようにいっていたのが印象的でした。ですから授業内容もおざなりで、生徒がわかっていようがいまいが時間が来れば途中でも終わりということで、「労働価値説」そのものの職場でした。すなわち彼らは「単なる労働者」としての意識しかなかったのです。
そのような職場では、逆に頑張っている先生は目立ちます。放課後にも自分たちの質問を受けてくれたり、休み時間に一緒に遊んでくれた先生は今でも印象に残っています。
一方、いいかげんに時間を過ごし、授業内容も何の工夫も感じられない教師は、文字通り「反面教師」の存在でした。しかも革新自治体であった関係で教育委員会も組合活動を行っている先生を優遇します。顧客である生徒からの評価や、実際の成果から評価すると正反対の人事評価がされていたのは全く滑稽なことであり、顧客主義からあってはならないことです。それにしても長い歳月を経て振り返ってみると、校長だか教頭だか学年主任だかそれなりに出世していた教師の記憶なんて何も残らなく、ただただ親身になって勉強や礼儀を教えてくれた先生のことばかり思い出します。組織内の出世なんて結局その程度の価値しかなく、人の記憶に残るような感動を生み出すのは、仕事の質そのものであることを感じさせられます。
2.都会の学校に転校して~公立教育と市場教育の大きな差
さてA市の小学校を卒業し、中学校1年までA市に住んでいましたが、父親の仕事の都合でF市に転校しました。F市の東端の中学校に編入しましたが、驚いたのは全体的に進度が遅れていることです。非都市部であるA市には塾も少なく私立学校も少ないということで、公立学校にも教育全般を担おうとする気概が残っていました。一方、都市部の公立学校では教育熱心な両親のいる生徒は塾に通ったり私立学校に行くことが多く、公立学校関係者には何かしら「劣等感」が充満しています。授業量も少なく、A市の中学校では6時間授業が多くなされていましたが、F市では5時間で終わりという日が多かったように記憶しています。
かといって教師は組合活動に忙しいという風でもなく、何かしら趣味に近い形で部活動に力を入れていることが多いように感じました。結局のところ、誰からも充実した教育を期待されていないし、それを行わなくても何らペナルティがないので、インセンティブは一切働きません。これといって尊敬できる教師は少ないものでした。顧客との関係で言えば「Win-Win」の関係ではなくまさに「Loss-Loss」の関係です。特にサービス産業は、厳しい競争環境の中で顧客に鍛えられながら生産性を向上させていかねばならないと後から思い出して感じた次第です。
今もF市の公立学校に子供を通わせていますが、授業参観などで「紙芝居のような」レベルの低い授業を見ると、納税者として深く失望します。
そんな状態ですからよって熱心な生徒にとっては塾に通うことが自らの生命線になります。F市には東大進学で有名なG中高校があり、Gへの入試合格者が最も多いHという進学塾があって、そこに通う者が多くいました。その塾のスローガンは「常在戦場」であり同学年において最大30クラスあって、成績順に上のクラスから編成され、定期的なテストでクラスの入れ替えが行われるようになっています。また顧客である生徒に常に教師に対する評価アンケートをとっていて、教師はその評価に従って、時給が定められるシステムになっています。しかも常にカメラで授業風景が録画され、それを材料として改善点を見出すための研修も充実しています。人気の高い教師はどんどん時給が上がる一方、パフォーマンスの低い教師は解雇されることもあります。まさに顧客の評価がストレートに人事評価や処遇につながっている事例です。
私は生徒としても、また教師としてもこの塾に関係しましたが、常に気を抜けない環境の中で、生徒・教師が互いに切磋琢磨してお互いに高めあうシステムが確立されていることを評価しています。公立学校にはない「緊張感」「顧客主義」がそこにはありました。
今自治体の中には、指導能力のない教師の再生とその見込みのない教師の解雇の取り組みが広がっているのは、教育をサービス産業として捉えた場合、極めて妥当な取り組みです。
気高い人格を持つ尊敬すべき先生も多くいらっしゃいます。一方で、「なぜこんな人が教師!」と思う人も多数おり、サービス産業の供給者としては極めて妥当性を欠いているのではないでしょうか。
教育再生のキーポイントは、しっかりとしたプロのスキルで「顧客主義」を確立するための評価システムが必要です。
2004年05月15日
NOTカリスマ職員の「振り返れば自治体」日記(3)
●ゼネラリスト賛美・ごますり主義を埋め込む公立教育
★5月8日日記の続きです。
そうこうしているうちに中学3年になりました。高校進学の時期に
なりました。F市では市内を3つの学区に割って、それぞれ5~8の高校がグループ化され、その中から入試先を選択する方式です。
しかしながら、合否判定は「入試」だけで決まるわけではなく、それまでの中学校での成績(いわゆる内申書)でほとんど評価され、その割合は9割をも占める決定的な要素となっています。よって中学校3年生2学期にもなると、事実上受験できる公立高校は学校によって決定され、本人には個別懇談会で「通知」されるようなものです。もしその通知内容が本人の意向に沿わなければ、私立高校を受けるか、強行突破で公立高校を受けることになり、結果は当たり前のことですが、不合格になることがほとんどです。
私は、子ども心にもこのような制度に大いに疑問を持っていました。このような制度を「選抜制度」と呼びますが、この制度が公正にかつ納得されて成立するためには、成績評価が客観的にかつオープンに運営されることが必要です。しかしながら通知簿の結果を見ると、必ずしも定期試験の成績だけにリンクしているわけではないようです。「内申」を「内心」に代えてみるとわかりますが、教師の主観的な判断にかなり影響されていることを感じました。(たぶん、この制度がある限り今も変わらないと思います。)
選抜制度を擁護する人たちの論拠は「教育現場に競争環境を持ちこまない」というものですが、選別されて各高校に振り分けられるわけですから競争がないなどといったことは決してありません。それではどんなところで競争になるかというと、教師への「ごますり大会」になるのです。ともかく気に入られることが「内心」を向上させる唯一の手段ですから、良い高校に行きたければ教師にごまをするしかないのです。ここには個別テストの結果を内申書にストレートに反映させない「グレーなプロセス」が関与しているのです。
このことは教育現場に限ったことではありません。能力・実績主義を否定的に捉える(特に自治体など公的機関)組織では、個々の業務が勤務評価にストレートに反映されないため、出世するためには上司に「気に入られる」ため徹底したごますりが必要となります。実は、中学校の段階でこのような文化が刷り込まれているわけです。「百害あって一利なし」です。内申の内容は全てオープンなプロセスで実施される試験などの結果をストレートに反映すべきです。教師に気に入られるかどうかなど、全く無価値です。
もう1つ問題なのは、「極端なゼネラリスト志向」です。内申書の内訳を見ると、副教科と呼ばれる「体育」「美術」「音楽」「技術・家庭」に割り当てられた評点が極めて高くなっています。よって良い高校に行くためにはこれらの副教科でバランス良く高得点を獲得することが必要となります。人間誰しも得意・不得意がある中で、全部の教科をバランスよく成績を上げることはもともと無理があります。そんなことができる人はいわゆる「要領の良い人」であり、そのような人に限って本物の力を持たず、その場をごまかし続ける「自称ゼネラリスト」を再生産しつづけることになります。
このことの根本原因は、高校の「普通科」が求められる人材がゼネラリストであり、一芸に秀でる生徒などいらないとしている教育システムに起因します。
このことは、基本的に顧客が明確化されていない組織全般(特に自治体など公的機関)にも言えることです。学科試験やこね採用で自分たちと似通った役にも立たないゼネラリストばかり集めた大いなる素人集団ばかり作っても、プロとして顧客に満足してもらうサービスは提供できるわけがないのです。まずは自分たちの顧客とは誰かと言うことを明確にし、本当に顧客側から求められるサービスをプロとして提供できる「戦力」を重点的に獲得するべきなのです。頭がよくて成績が優れ、上司にかわいがられる人材が、顧客にとって「ウェルカム」な存在ではありません。
以上のようなことを感じていたので、私は取りたてて教師(今は上司)にこびを売ることなく、ひたすら成績を客観的に上げることに集中しました。また副教科には価値を感じていなかったので、それぞれ天才肌の友人に代わりに成果物を手伝ってもらい、代わりに主要教科のノウハウや勉強の進行管理をアドバイスしました。このように役割分担をして、成績表をそれぞれ満足できるレベルにまで引き上げることにし、その当時の制度の中で、希望を実現することに成功しました。
これからの時代は「選択と集中」の時代です。また、身内のお手盛りの評価ではなく真に顧客に評価される「本当の実力」が求められるのです。そのような時代に、教師にかわいがられるゼネラリストである生徒を重視した教育システムは一刻も早く止め、高校や大学もそれぞれ自分が最も得意とする分野だと本人が感じている教科などで勝負ができるよう、コースの細分化などが必要です。
これは、ゼネラリストばかりいる自治体にとっても他人事ではないのです。
2004年05月22日
NOTカリスマ職員の「振り返れば自治体」日記(4)
●県職員と初遭遇
★5月15日日記の続きです。
私は地元の公立高校に進学しました。伝統のある名門校とされ、両親や周囲も喜んでくれましたが本人が最も期待と夢を膨らませて門をくぐりました。しかし教育内容については特筆すべきものはありませんでした。また、そこそこ自信を持って入学しましたが、出身中学校のレベルが他校よりも低かったようで、定期試験などでその実力の差を思い知らせられました。「世間が広い」ということをこの時点で初めてわかったのです。
さて、ご承知のとおり高校からは「都道府県立」が多くなります。所管もこれまでの市町村教育委員会から都道府県教育委員会に変わります。それにあわせて労働組合も「都道府県教職員組合」に変わるわけですが、この組合はさらに政治性が強く、多くの議員の出身母体でもあります。すなわち組合活動も先鋭化するわけです。高校教師は概ね3つのグループに大別されます。「組合活動が最大関心事の教師」「全く何事にも無気力な教師」「ステップアップを狙うプロ教師」の3グループです。また別の日に内容は譲りますが、大いなる無気力集団の事務室(不親切、偉そう、遅いの3拍子が揃っている)にも県職員が配置されていました。
組合活動に熱心な教師はともかく、何事にも無気力な教師の授業は耐え難いものでした。何十年も同じ内容のものを壊れたテープレコーダーのように話し続けるだけであり、生徒がわかっていてもわからなくても全くおかまいなしであり、たまに質問をされると、しどろもどろになるか無視をするという態度を見せます。こんなことでパフォーマンスが上がるはずはありません。皮肉を込めて「前例王」と呼んでいますが、現在でも自らの業務が少しでもそのようにならないための文字通り「反面教師」とさせてもらっています。
また高校3年の時に、地元で「地方博覧会」が開かれましたが、私たちは仲間グループ数人で県から補助を受けて地元の史跡(前方後円墳)を紹介するビデオを製作して博覧会の県のテーマ館で常設上映を行いました。その際の窓口になってくれた県職員が異様に事務に細かく、たとえば使用する16ミリフィルムについて「●●製で●●円以内で●●で購入すること」といったことを一方的に通告してくるのです。高校生としては当然頑迷な相手にあうと「いたずら心」が起きるもので、「そのように買ったこと」にして、「余った」フィルムで、その県職員のふるまいをパロディにした「ミスターイエスマン」を勝手に上映して、本来の映画よりも「面白い」
と「バカ受け」しました。その職員までもが自分がモチーフになっていることも知らず笑っていたのには新たな笑いの種ですが、ここで笑えないのは、その県職員は、客観的にみれば自分でも笑えるようなことを、平気で杓子定規な対応を気づかずに行ってしまっているということです。その当時の県庁では幹部はほとんど国のキャリア職員で占められ、キャリア職員と県のプロパー職員は完全に2層化していたようです。さらに出先の職員の位置づけは低く、その処遇が県民相手の態度である「無気力、不遜」に現れていたように今から思えば感じます。
このように高校までの経験を振り返ると、一部のプロ職員や教員を除いて、典型的な自治体職員を「住民に偉そうにしている人」「決まりどおりしか仕事のできない頑迷で融通が聞かない人」「勤務時間が終わればさっさと帰る人」「自分の仕事よりも自分の趣味を優先する人」といったイメージを持ちました。
私の誤解もあったとは思いますが、魅力ある職業とは到底思えない状況でした。それにしてもそのような職業を「羨ましい」と思って公務員志望を持つ友人も多くいて実際に自治体に就職していることには暗然たる気持ちとなりますが、自治体で職員がどんどん減らされ業務も複雑化する中で、そのような気持ちを持っていた友人は「話が違う」と不平不満のオンパレードになっています。これからもさらに状況が厳しくなるなかで、彼らが追い求めた「桃源郷」はどんどん遠くなっていくはずです。
それに対して見習うべきは、一部のプロ職員の存在です。彼らは周りの意識の低さにあわせることなく、常に自分自身の仕事に情熱とプライドを持っていました。そのように感じた人たちは、組織内で出世するのはもちろん、別の組織に転進して、大学教授などステップアップをはかっています。彼らの特徴は、自らの生活や趣味を仕事の中に溶け込ませていたことです。人間はそれほど器用ではないので、仕事半分、趣味半分といったことは事実上難しく、どちらかを重視し、犠牲にするかを選択しなければなりません。プロ職員たちは迷わず、仕事中心を選択していました。
誰しもがそのような人生を送ることは本人の選択に任されるべきですが、両方の折り合いをつけようと悪戦苦闘しても全てが中途半端になって無用に加齢を重ねるだけです。早い段階でどちらを中心にすべきか決める必要がありそうです。
2004年05月29日
NOTカリスマ職員の「振り返れば自治体」日記(5)
●大学に入って「大学事務室」の酷さを実感
さて、高校3年間の生活を終え、G大学法学部に進学しました。G大学は自由な学風で、私の学部も「勝手に勉強しろ」のごとく、卒業論文もなく、経済学部と共通単位にして何でもよいから自分にとって勉強したいものの授業を受け、単位を揃えなさいといった風情でした。このような学風のため学生は2極化し、ものすごく自分の好きな勉強をする人と、全く勉強せず自分のやりたいことに傾倒する人に分かれます。G大学は理学部や工学部でノーベル賞受賞者を輩出していますが、卓越した業績を挙げるということは、やはり押し付けではなく「自分のやりたいこと」に没頭できた結果ではないかと思います。
私自身は当然ながら「マイウェイ型」であり、好きなバイトや資格試験に明け暮れる毎日を過ごしていました。あまり建設的な大学生活ではありましたが、当時いろいろと勉強したことが、今となって変なところで役立っているのを実感しています。
さて今回の公務員との関わりは「大学の事務室」のことです。国立大学であったので彼らは国家公務員でしたが、典型的な「お役所窓口」であったので、同列に論じたいと思います。ちなみに社会人大学院生として現在別の国立大学に通っていますが、独立行政法人に変わっても事務室が全く不変であることにはあきれています。
皆さん、ご承知のとおり、大学の事務室には、国家公務員中級及び初級で合格した職員が配置されます。彼らは「天下無敵」であり、教員にも偉そうな口をきき、学生は虫けら扱いをします。すなわち彼らには「恐れるべき人」や「顧客」が存在しないのです。自分たちの勤務条件が少しでも楽になることだけが目的であり、夏休み・秋休み・冬休み・春休みなど休みもいっぱいあります。よく「●●海峡単独遊泳」といったニュースをよく聞きますが、その人の職業を聞くと、大学事務職員とか自治体職員であることが多いように感じています。いっぱい練習して海外遠征までできるわけですから、お休みをいっぱい取れる職業でしかそのような「偉業」は達成できません。世間的には「偉業」が褒め称えられますが、私は「よほど仕事が楽なんだな!」と感じてしまうのは、あまりにも皮肉っぽい見方でしょうか・・・・・
さて独立行政法人になって、公務員ではなくなったため基本的には事務職員の身分保障はなくなりました。大学事務室に緊張感を取り戻すチャンスです。
最近、大学事務室で怒鳴りあいの喧嘩をよく耳にします。社会人大学院生と事務室職員との喧嘩である場合が多いです。その内容は余りにも不親切で、機械的で、杓子定規で、自分勝手な対応をとる事務職員に対して、世間の常識的な窓口の対応を求める社会人大学院生とで根本的な見解の相違が生じるからです。社会人大学院生は非常に高い学費を意識しており、「顧客意識」を強く持っています。このように大学事務室にも「市場の嵐」が少しずつ当たるようになってきています。世間知らずの職員と百戦錬磨の年配の社会人大学院生が喧嘩して、職員がやり込められている姿を見ているとバカボンのパパのごとく「これでいいのだ!」と大きく頷いています。職員の「●●天国」が少しでもなくなればと思います。少子化により大学が「全入制」になり、大学間での学生の奪い合いが激しくなれば、さらに市場原理が大学内に持ち込まれることになり、できの悪い事務職員をパージできるチャンスが生まれます。大学の先生も然りです。社会的に何ら貢献することなく自らの趣味にふけっている教員は無用にコストを上昇させている「顧客の敵」なので「任期制」等の導入でフィルター機能を設ける必要があります。
そんなこんなでアダム=スミスの偉大さを最近の大学事務室の喧嘩している姿を見ながら実感している次第です。
自治体窓口も自治体間でのサービスの相互参入が実現できれば、市場原理による改革が進むかも知れません。また一部の都道府県職員や市町村でも管理部局の一部の職員も同様です。彼らは、顧客である市民に怒鳴られた経験がないのです。ですから口で「顧客主義」を唱えながら、行政評価システムなどを机上で作れば、それで終了といった風情です。そういった人たちは窓口に配置して、市民に怒鳴られればよいのです。窓口も経験したことがないような自治体職員は、いつまで経っても「浮世離れ」「空理空論」から逃れられません。顧客とのきれい事ではない(性善説に過度に立脚しない)緊張感ある対応を経験しないと駄目なのです。
2004年06月05日
NOTカリスマ職員の「振り返れば自治体」日記(6)
●就職活動で様々な業種の人と交流
今回は自治体の話とは少し離れますが、ご容赦ください。
さて、気ままにすごしてきた大学生活も終わりが近づいてきました。その頃、世の中はバブル景気の「はしり」のような時期にあたり、「日本は世界一の国だ!」ばりにみんな浮かれたようになっていました。
そんな時代でしたので、就職のこともあまり真剣に考えず、ゼミに、バイトに、旅行に明け暮れる毎日でしたが、時間だけはどんどん経ち同級生たちも次々と内々定を取り始めていました。その頃の自分は、これまで公務員のだらしない姿を見てきたので、自らが将来自治体職員になるとは夢にも思っていなかったし、そんな気もさらさらありませんでした。ただゼミの先輩からアドバイス「就職活動でできるだけ多くの企業や官庁を回り、できるだけ多くの業種の人に触れておくことが将来のために貴重な経験となる」を素直に受け入れて、ある時期から官庁も含めて猛烈に会社訪問するようになりました。
どちらかと言えばメーカー志望でしたので、本命の化学メーカーや自動車、たばこ、電機メーカー等を足早にまわり、7つほど内々定をもらった後、銀行、商社、建設もまわり4つほど内々定をもらって、その中から真剣にどこにいくか考えるようになりました。(そういう時代もあったのです。)
メーカーも魅力的でしたが、出会ったリクルーターの方々を比較すると、圧倒的に都市銀行や商社の方の人間的魅力が強く、最終的には、ある都市銀行に就職することに決めました。その途中で多くの出会いがあり、多くの先輩方が就職活動という枠を超えて、仕事のことや社会人としての生活の話をしていただいたことは、生涯の宝となっています。素晴らしい教訓をいただいたこともありますが、やはり「隣の芝生は青い」ということが「幻想」であり、今自分が属するフィールドで精一杯頑張ることが大事であると感じることができたのはよかったと思います。みんな歯を食いしばってそれぞれの業界で頑張っているのです。
このように夢のような、楽しい就職活動ですが、唯一嫌な思いが残ったのが「官庁訪問」です。友人も受けるというので、国家公務員上級試験を受験し、1次試験に合格しましたので、夏場の霞ヶ関を汗を拭きながら回りました。当時は霞ヶ関のキャリアになるためには、上級試験に合格し夏場に官庁をまわって内定をもらい、それから2次試験にのぞむシステムとなっていました。(今もたぶんそのままだと思います。)人気官庁(大蔵省、通産省、警察庁等)には多数の受験者が集まり、早朝に訪問しても一日中会議室のようなところで待たされ、深夜にならなければ対応してくれないということも多くありました。もともと私自身は物見遊山的に受験したこともあり、かっこだけつけるために、ある人気の薄い官庁の内定だけいただいて早々に引き上げましたが、キャリア第一志望でなかなか希望の官庁の内定をもらえない友人は秋風が吹き二次試験が近づくまで東京にはりついて訪問をしていました。この内定システムがどのように運営されているかは知りませんが、やはりゼミの先輩がいたりすると先輩が段取りをつけてくれたりして、一日中待たなくても早々に面接にありつけるような人を数多く見ました。試験という実力主義のかたわら、内定段階では「身内重視」が露骨に見え、嫌な思いをしました。特定の大学の身内で固めたいのあれば最初からそのあたりをはっきりさせてもらいたいものです。私自身のことは置いておいて、真剣にキャリアになろうと頑張ってきた特定の大学の人以外の人には、大変失礼な話です。
私自身はその後、内定をもらった銀行の「拘束」に応じて二次試験の受験をパスしました。最終的には誘ってくれたリクルーターの熱意と人間的魅力に負けたということです。最後まで残しておいた別の都市銀行を断る際には、地元銀行であるということもあり、後ろ髪引かれる思いでした。その後、それぞれの銀行は当時では考えもしなかった数奇な運命に巻き込まれていきますが、それは1個人としてはどうしようもないことなので、運命に任せざるを得ないと思います。それよりも今から思い返してみると、組織を選ぶということも大事ですが、自分がどのような仕事をしたいのか何も考えずに就職時期を迎えてしまったことに悔いが残ります。どのような組織に属するとしても、これからは自分自身がどのような仕事をしたいと思い、実際にその夢を実現していくことが大事なのだと思います。中央官庁であろうが、銀行であろうが、メーカーであろうがそれは変わらないはずです。
官庁訪問に行ったとき、あるキャリアの人に言われた言葉が心の中に残っています。「面白い仕事をしたいのであれば、銀行や商社の方がずっと面白い。自分自身で仕事を作り出す醍醐味は他にかえがたい。役所の中でもできるが、あまりにも規則や制限が多く、しかも組織が大きすぎて身動きが取れない。若い頃からずっと多忙をきわめながら思うような仕事ができず、本当に疲れてしまった。」というものです。キャリアの人たちも決して「青い芝」にいるのではなく、また特別な人でもないことを実感した時です。今、若手のキャリア職員が次々と退職して政界やベンチャーの分野に次々と転進する話を聞きます。仕事がつまらないと思ったのでしょう。
そう考えると、まわりからどのように見られたとしても、自分のフィールドの中で、ささやかでも自分のしたい仕事を見つけ出し、組織目的と整合させながら実現していかねばならないと、キャリアの人の疲れた顔を思い出しながら、常に心がけています。
仕事は好きでないと、続かないものです。(単なる生計のための「作業」は別です。)
2004年06月12日
NOTカリスマ職員の「振り返れば自治体」日記(7)
●都市銀行に勤務して形成した「仕事観」
今回も自治体の話とは離れますが、自分自身の「仕事観」が形成された時期をご紹介いたしたくご容赦ください。
さて、就職活動も終わり、ある都市銀行Zに入りました。Z銀行は関西系の猛烈銀行として知られ、「Z銀行が通った後は雑草も残っていない(笑)」と揶揄されるほどで、当時もわが国で最も収益率の高い銀行として畏敬の対象として見られていました。
そのような銀行ですから、世間の評判も両極端で、「Zの名前を聞いただけで吐き気がする」という人もいれば、「さすがZの行員はプロ中のプロだ」と感心する人も多くいました。入行してくる職員も「Z命!」とか「代々Zへの就職を続けているゼミや運動部の選ばれた者」といった風情で、みんなギラギラしています。しかし私は、Zは数ある就職候補先の1つでしかないと考えていたし、Zにも劣っている部分が多くあると勝手に分析していました。Zは当時もてはやされたワンマン経営者が経営を牛耳ることでコーポレートガバナンスが確立されていないところがあり、また関西基盤であることから最大の市場である首都圏の収益基盤が弱いという側面を持っていたのです。その弱点を1人1人の能力と根性で克服して収益NO1を続けていたわけですから、それはそれで大したものではあります。但し、一般行員の手の届かないコーポレートガバナンスの未確立が、後に致命傷の事件を引き起こすことになり、いかに経営者の質が重要であるかということが今更ながらわかります。
こういう経験をする中で、「自分の組織でも一歩引いて強弱を見る。」という私の癖が身につきました。このような激動の時代には、自分の組織に変に陶酔することなく、冷めた目で見ることも必要であると勝手に納得しています。
さて、ギラギラした新入行員を見ていると、採用担当者の戦略がはっきり見えます。当時はまだ支店で多くの個人預金をとってくることで、それ以上で運用できる貸金とのスプレッドで利益を得るというビジネスモデルが一般的でした。そのため戦略的な仕事、外国部門、スペシャリスト以外に、「体力採用」と呼ばれる行員も数多くいたのです。彼らは大学や高校の運動部のエースやキャプテンが多く、自分たちの役割を十分認識していることもあり、ともかくアグレッシブな態度を取ります。また、Z銀行にはそのような体力採用の人を大事にする風土があり、取締役まで登りつめる人もいます。よって彼らはやる気満々なのです。しかしながら経営層へ登りつめていくコースは概ね決まっており、大体特定の大学出身者がそのコースに進んでいきます。極めて人事管理が巧妙にできているのです。
さてどちらでもない私は、O市内のある支店に配属されました。支店勤務は過酷なものです。全寮制の寮を6時に出て、個人的な準備は6時台に終え、7時にはそれぞれの課で打ち合わせが始まります。そこで厳しいノルマ宣告があり、場合によっては体罰や灰皿を投げつけられることもあります。ここの段階で新入行員のうち数名は「行方不明」という形で退職することになります。それから昼間は、街中へ行く者、店内で営業活動する者にわかれて仕事をして、また午後7時ぐらいから厳しく絞られます。普通の支店はこのような状況ですが、本店営業部などに配属された新入行員はエリート教育がなされます。こうして徐々に差をつけていくのです。
支店にいる者は、ともかく理屈抜きに数字を上げなければ這い上がることはできません。私はここで「実力主義」の本当の姿を見たように思います。ここでよく勘違いすることが多いのですが、「一生懸命やる」というのは実力主義の中ではあまり評価されません。人事評価によく「情意評価」というものがありますが、それは大事なようなものに見えてその実、実力主義を骨抜きにしてしまうものです。このようなことだけで評価してきた組織は反省すべきです。
このような厳しい職場の中で私は、「仕事の工夫をすること」「自分のお客様という味方をつくること」が大事だと悟りました。一生懸命するだけでは結果に結びつきません。他の人がやってないやり方で実績を上げる必要があります。私は当時あまり誰もやっていなかった「外貨貸し」を使うことで、他の銀行のお客さんを奪うことを計画しました。マルク建ての貸金は利率が低く、貸し出し規正の盲点でもありました。為替予約を組んでリスクを減らし、法務局に通って企業や資産家の抵当権の設定条件を把握し、片っ端から他行のお客さんをこちらに乗り換えさせました。特に第2地方銀行のお客さんは高い利率で設定されている貸金が多く、面白いように奪う事ができます。またかわいがってくれるお客さんには全身全霊をかけてサービスを提供しました。どんなにドライな時代になっても人間関係は重要で、自分の味方が特に組織外にいるということは自分の大きな武器になります。今もそのことを意識した取り組みを行っています。
さて支店で業績を上げ、これから本店でもということになったとき、もう一度この銀行のことを考え直しました。そして銀行業界全体のことを考えました。そのころはバブル絶頂期であり給料も大変良かったわけですが、自由化が進行しかつ不動産価格なども考えられないほど高騰しており、冷静に考えると、厳しい競争と大変な規模で焦げ付きが発生することが目に見えていました。銀行の中で身を粉にして働いても外部環境がシビアな方向に動いているのでは、自分の努力に応じたメリットがどんどん少なくなることは間違いなく、業界全体として見切りをつける必要を感じました。
そこで世の中を見渡したとき、自治体のことが目にとまりました。その頃から自治体は国への従属一辺倒からかなり大きな事業を行うようになっており、自治体関係の本を読んでも、自分が行う仕事と社会貢献することを一致させやすい仕事であるとも感じました。給料水準は低かったですが、何よりも仕事のやりがいを感じやすい仕事であると感じ、周囲には黙って出身地の自治体の試験を受け、合格しました。ただ銀行経験も後々の仕事に役立つと考え、ぎりぎりまで辞めないことにしました。そうこうしているうちに本部への転勤が近づいていることがわかり、上司にやめることを通告すると本店人事部まで呼びだされて執拗に説得されました。しかし、業界全体に見切りをつけていた私にとっては、もはやどんなことを言われても雑音にしか聞こえませんでした。
役所に入る1ヶ月前に退職し、いよいよ自治体職員になる日を迎えることになったのです。
しかしながら私は、自治体に入る前に短期間とは言え、都市銀行というある意味では「資本主義の権化」のような組織で
働く経験ができたことを今となっては本当に良かったと思っています。それは以下のような「仕事観」を持つことができたからです。
1.単なる「理論家」は世間的には役立たないし、評価されない。ただこれだけ世の中の変動が激しいときに単なる「体力勝負」では務まらない。理論と実践ともに身につけてこそ価値ある「仕事」をすることができる。
2.どんな組織や業界も永続することはない。これは自治体にも言える。人の人生よりも組織の寿命の方が短い時代が到来した。過度に自らの組織に没入することなく外部からも市場価値を感じてもらえるようなキャリア形成が必要である。
3.人それぞれに組織の風土や価値観との相性がある。あわなければ無理にあわせることはない。就職するときは自分として組織風土や価値観に共感できるか十分に検討する必要がある。
4.収入というものはふってわくようなものではなく、血のにじむような努力によって初めていただけるものである。そのことを強く自覚しているかどうかが、プロと素人を分けることになる。お金をいただいているからには好き嫌いは別として仕事に全力集中しなければならない。
1~4のようなことを最初から自治体に就職していては、気づいていなかったと思う。このようなことを極力気づいていくためには、多様な職業やつきあい、活動を行うことが是が非とも必要なのである。
2004年06月19日
NOTカリスマ職員の「振り返れば自治体」日記(8)
●役所生活が始まる
さて、私の自治体職員としての生活が始まりました。私と同期で入庁したのが大卒・短大卒・高専卒で132名でした。その他高卒等の人を入れると200名前後の人が「同期」というわけです。
自治体には元々転職組が多く、私の同期にも、KさんやYさんなど民間企業経験を持った職員が多くいました。その意味では転職組であるからといって、あまり特別な意識を持つ必要がなかったのです。
さて、新人研修は約20日間続きます。この間、新規採用職員は職員としての基本的な知識やルールを学ぶとともに、合宿などを経験して同期意識を身につけていきます。
楽しい新人研修を送るさなかに、私は人生にとっても大事な儀式をしました。それは結婚です。私が25歳、相手も25歳ということで高校の同級生でもありましたが、役所の人や同期にも何も言わずに、友人や親族だけ集めて式を行ったのです。無論、同期で一番早い結婚でした。
これにはある種の「思い」があって、銀行時代は皆「全寮制」であり、週末の休みの日も運動会や文化祭、親睦旅行など私生活においても全人格を支配するようなシステムが確立しており、そのため銀行の行員どうしが結婚したりすることが多くなっていました。私は、仕事とプライベートとを混合してしまう日本企業の「一家主義」に激しく嫌悪感を覚え、少なくとも結婚するならば別の組織の人間とし、プライベートでのつき合いは、ほとんどしたくないと考えました。おかげさまで役所というところは職員のプライベートを尊重される良い風土があり、あまりプライベートの分野にまで土足で入り込まれることのないことを幸運に感じています。それでも、同じ組織の自治体職員どうしで結婚する人たちも多く、それはそれで「趣味の問題」だと思っています。
さて、新人研修が終わり、私はある事業部局の窓口のある職場に配属されました。そこは毎日200人以上来訪者があり、相手が住宅地図上で示した場所について都市計画法上の用途地域等を口頭で伝える窓口です。さらには、当時国土利用計画法上の「監視区域制度」により数多くの不動産取引が届けられたものに対する土地利用審査、さらには都市計画道路予定地で事業未実施部分における建築制限の審査などを行う部署でした。
私にとってこの配属が幸運であったのは、
●その課がその自治体の中でも優秀な技術職員が集まる職場であり真夜中まで熱心に仕事をする人が多く変に「役所文化」に毒されずにすんだこと
●窓口があり直接市民と触れ合う経験ができたこと
●市内の隅々まで地形や地名、土地利用の状況などを窓口で答えるうちに習得できたこと
などが挙げられます。
そういう意味ではつらつと仕事をすることができましたが、ただ直属の上司は典型的な権力的役所人であり、仕事もできなければ、柔軟な思考もできない人でした。ただ、役所の面白いところは上司が「全能」ではなく、上司を半ば無視しながら担当者がある程度自らの裁量で工夫して仕事ができることです。レベルの低い上司にあわせても自分にとっても組織にとっても良くないことなので、新人などと遠慮することなく、まず「自分にできることは何か」と考えながら行動に移していきました。まずは窓口に来る来訪者の利便性の向上を図るため、窓口対応者の総合マニュアルを作成することにしました。その窓口は自治体として「建築確認」を最初に受け取る部署であり、申請者にとっては提出する前に、当該建築があらゆる法令・要綱に適合しているか事前にいろいろな部署を回って調べる必要がありました。窓口対応者によって対応がばらばらでは利用者に迷惑をかけますので「土地利用ガイドブック」なる加除式のマニュアルを作成し、窓口対応者が建築申請内容を見ながら、用途地域、防火地域、風致地区、下水処理方法、都市景観、地区計画、宅地造成等規正法、臨港地区制限、開発行為制限、大店法、駐車場付置、ホテル・ワンルーム建築規制などによってどのような制限を受け、その内容を協議するためにどのような部署に行くことが必要なのかを的確に答えられるようにしました。
また20年以上も指定したままで事業化されない都市計画道路内での建築制限(木造か鉄骨造で2階建てまでは許可)されていたものを当時の建設省に掛け合って3階建てまでならば、路線によっては建築許可を出すという「運用」を勝ち取りました。
さらには、人間が答えていた用途地域の窓口に、地図上に用途地域をレイヤーで落としたものを閲覧できるシステムを導入するための検討なども行いました。
これらのことを経験する中で、自治体職員はやる気さえ持てば、ルーティーン的な職場であっても様々な工夫や努力をすることができる「やりがいのある仕事」だと感じることができたのです。
目の前の仕事を工夫・改善していくことの必要性と喜びを感じることができた瞬間です。
当時少しずつ「転職ブーム」が広がりつつあり、地元のテレビ局から取材を受け「収入が減ってもやる気が出る仕事が一番」というタイトルで、夕方のニュース番組で取り上げていただきました。お行儀の悪い金融機関の仕事と比べると自治体の仕事は給料は低いけれども世の中の役に立つ「きれいな仕事」だという先入観で取材がされたと思います。
ただ、それは半分正解、半分誤解であり、きれいな仕事であっても世の中の役に立っているかはまた別の問題だと感じています。
このように私の自治体職員としての生活やプライベートの生活は比較的順調に進んでいきました。
2004年06月26日
NOTカリスマ職員の「振り返れば自治体」日記(9)
●初めての異動と究極の内部管理業務
さて、3年間の窓口業務と建築物や土地利用の審査の業務を経験し、私はすっかりその職場の「主」になっていました。何かわからない点があれば他の職員は私に聞いてくるし、少し処理の大変なお客さんが来ると、最年少なのに私に処理をまかせる。頼られているというふうに感じながらも、民間企業で社会経験があるからと言って、何か便利つかいされているようで違和感を感じることもありました。別の言い方をすれば何十年も役所で仕事をしていて、ちょっとうるさ型の不動産屋のおっちゃんが来ると、たちまちこそこそしか対応できない人がいることに(全員ではありません)、「この人たち何十年も何をしてきたんだろう。」と感じ、「こんな地方公務員(あえて自治体職員と区別して呼びます)だけにはなってはいけない。」と思わせていただいたことは、私にとって幸運なことでした。
それで3年が経ったこともあり、異動希望(役所の場合「転勤」の代わりにこのような言葉を使います。)を出しました。3年経てば本人が希望すればかなりの確率で異動することができるようになっていました。スペシャリストなど育てる気もないという明確な証左です。私は10年間は「修行の期間」であると割り切って、特に異動希望先は明示しませんでした。
そうして異動辞令を見ると「●●局庶務課」という名前が書いてありました。民間の人にとって「庶務課」という名前は死語に近いと思いますが、役所では未だにそのような部署があります。「総務部総務課」のような仕事に加えて、役所特有の「予算編成」「議会対応」「その局の人事・職制」などを行う組織です。またその時は全く意識していなかったのですが担当業務の片隅に「防災」が書いてありました。この片隅の仕事が後に私の役所人生の前半の「ハイライト」になるとは、当時は夢にも思いませんでした。
私は若かったということもあり一番体力を必要とする「予算編成」「議会対応」を担当することになりました。これらの業務は聞こえは良いですが、要は予算や議会答弁に関する内部的な資料をエンドレスで作成する業務です。最初は深夜1時や2時まで残業しても、仕事が終わらずどんどん業務がたまる一方でした。大体その部局全体で予算が400億円くらいでしたが、内部管理業務や組合交渉事項が多く、せっかく整理できたと思ってもある日突然、事情が全く変わり、1から仕事のやり直しということも多くありました。
しかし、このような仕事をさせてもらって、今では感謝しています。役所の仕組みがおかしいと直感的には感じていてもどこがおかしいのか、運営システムの内側に入らなければ具体的にわかっていなかったのです。実際携わってみると、様々なパワーバランスで運営されており、そのことが著しく効率性を阻害していることがわかりました。そしてその権利調整が全て秘密裏に行われていることにより、役所の中でも一部の部署に権限が集中したり、役所が気を使わなければならない組織、個人が特定されることになるということもわかりました。要は運営システムを改革するために一番必要なのは、自治体運営の隅々まで「ガラス張り」にすることだと思いました。その意味で三重県が労使交渉を完全にオープンにしたり、ニセコ町が内部の打ち合わせ会議まで完全にオープンにし、その内容を情報発信するスタンスをとっていることは、自治体運営を正常化するためには全く正しいことであると共感しています。
さてそのような仕事を来る日も来る日も1人でこなして2年が経ちました。相変わらず大体1か月に140~190時間の残業をこなしていましたが、組織としては評価が高い仕事であっても、私にとってはつまらない仕事に思えてきました。役所の運営システムのおかしい点などもわかり、自分の中では「用済み」の仕事になったので、始めて2年でしたが後輩が配属されたこともあり、「別の仕事をさせてほしい」と上司に申し出たところ了解をいただき、ある施設を整備するための基本構想・基本計画を策定する業務に代わりました。
私は、この業務によって、別の意味で「新しい世界」を覗く経験をさせてもらうことになります。
2004年07月03日
NOTカリスマ職員の「振り返れば自治体」日記(10)
●思い出深い「平和関連業務」+突然の出来事
●●局庶務課から異動はしなかったが、これまで担当していた議会・予算業務とは全く異なる「平和関連業務」を担当することになりました。内部管理業務の多忙であるがつまらないことと役所特有の「前例主義」「セクト主義」「身内主義」に辟易としていた私にとって、新しい業務はたった10か月しか携わりませんでしたが、新鮮で思い出深い業務となりました。
「平和関連業務」と言ってもどのような業務であるかピンと来ない方も多いと思いますので少し内容をご説明すると、当時戦後50年ということで過去の戦争の振り返りと今の平和の尊さを後世に伝えることが必要であるという声が強まっていた時期で、そのために「平和記念館」的な施設の整備や企画展、平和行進、戦災関係の資料収集などがどの自治体でも盛んに行われており、私の自治体でもそれらの取り組みを充実するために積極的な取り組みを始めたわけです。
まずは「平和記念館」の整備。私の自治体では2度にわたる大規模な空襲により8000人以上の方が死亡し家族を中心に深い傷を残していました。野坂昭如の「ほたるの墓」はその空襲の様子がモチーフになっています。空襲で亡くなった人の家族も老齢化し「遺品」を残したいが安心して預かってくれる施設がほしいという要望も日増しに強まっていました。そういう要望に応えるため施設整備ということになりましたが、1から出発と言うことでまずは「基本構想」の策定に着手することになりました。学識者や活動家などに委員になっていただき委員会を設置し、委員の方々と私たち事務局は、全国の類似施設を急いで見て回ることになりました。「川崎市平和館」「ピースおおさか」「広島平和記念資料館」「旧海軍兵学校教育参考館(江田島)」「長崎原爆資料館」「知覧特攻平和会館」「沖縄県平和祈念資料館」ほかにも多くの関連施設や構想段階の施設についてもヒアリング等を行いました。どの施設も印象深いものがありましたが、特に、広島、江田島、知覧、長崎、沖縄の施設を訪問した際に展示内容を見て強い衝撃を受けました。私はノンポリでそれまで平和に関する声高な主張には全く耳を貸さない方でしたが、あまりにもの戦争の悲惨さを目にしたとき、平和の尊さをかみしめたような気がします。10代の若い女の子が全身やけどを負ってケロイドで苦しんでいる様子や原爆で死んだ弟をおんぶひもでおんぶしながら直立不動で悲しみに耐えている少年(家族は全滅で自分だけが学校に行っていて助かった)の写真を見たとき、涙が止まらなかったことと、戦争の理不尽さを改めて感じました。http://nakanihon.net/gennbaku.htm
この悲惨な出来事を後世に伝え、少しでも平和が長続きすることをお手伝いすること、こういった仕事こそ自治体職員が頑張る価値があるものでると深く納得し、それからは自らの自治体で資料集めに奔走しました。平和団体と協力して企画展も矢継ぎ早に開催し、戦災を体験した人たちへのインタビューも精力的にこなしました。
ようやく平和記念館の「基本構想案」もまとめ、さらには関係者との人的ネットワークもできたので、「一生のライフワークにしたいな!」と感じ始めていました。(今でも関係団体への募金だけは続けています。)
その時は、数日後に私の仕事人生を根