広大な草原だった。あたりには誰もいない。生命の気配すら感じられない。
自然の奥深くというのはこんなにも寂しいものかと、一郎は恐ろしくなった。
徒歩30分。「自殺美容整形外科」の老人が送ってきた案内には、確かにそう書いてあった。
しかし1時間以上あるいたところで、いっこうにたどり着く気配がない。
眼前に聳え立つ富士山は、近づかない。無限の一本道にはまり込んだような恐怖。
(どうせ死ぬんだから。怖いことなんてあるもんか)
一郎は、誰も見てないのに平静な表情を取り繕いながら、まっすぐな道を進んだ。
遥か遠くに小さな平屋が見えたのは、正午も過ぎた頃だった。
「自殺美容整形外科」は本当に存在した。
長い一本道を歩いて来る間、心のどこかで「ウソだろ」と思っていた。
いや、この期に及んでもまだ信じきれない。古い木造の平屋はどう見てもごく普通の民家だ。
ただ、表札には住人の名前の代わりに「自殺美容整形外科」と記されている。
一郎は確かめるように戸口の呼び鈴を鳴らした。
こうやって「ウソだろ」がひとつずつ裏切られていく。
「はい、どうぞ」
中から老人の声。電話で話したあの声だ。
一郎は引き戸を開けた。
半纏を羽織った老人が玄関口へ向かって出てきた。
声よりももっと年老いて見える。
銀縁の眼鏡をかけた顔に深い皺が刻まれているのが、遠目からでも分かる。
見たところ、70歳は超えていそうだ。
「ああ、よくいらっしゃいました。どうぞ、上がってください」
「お邪魔します」
茶飲みにでも来たかのようなこのやりとりに軽い違和感を覚えた。
居間のような部屋に通された。座布団を敷かれ言われるがままにその場へ座った。
「いやぁ、待ってましたよ。朝来るっておっしゃってたのに」
「だって、30分じゃ全然着かないですし。遠すぎですよ」
一郎は歩きながら溜まっていた怒りを露にする。
「随分お若い声だとは思ってたけど、こりゃびっくりだ。おいくつかな」
「14歳です」
「ほぉ、子供か…」
老人は宙に眼を遣りながら独りごちた。
「お名前を聞いていませんでしたねぇ」
「あ、木山です。木山一郎です」
老婆がお盆にお茶を乗せて入ってくる。この老人の奥さんだろうか。
「どうぞ、ごゆっくり」
(ごゆっくりって…)
一郎は老婆へ目礼しながら、少し苦笑した。
なんだかここに着いてから、全てが肩透かしだ。
老人は老人で、茶を啜りながら「どこから来た?」だとか、「富士山はでかいだろう?」とか、どうでもいい話を続けている。
しまいには、老婆まで隣に座ってお茶を啜り出す始末。
一郎はお茶には一度も口をつけず、ただ聞かれたことに答えていたが、いい加減いやになってきた。
「あのぉ」
初めて一郎のほうから話かけた。
「はいはい」
苛立つ一郎とは裏腹に、老人は嬉しそう。
「ほんとにここ、自殺美容整形外科なんですか?」
「はい、もちろんそうですけど」
「おじいさんは、誰?」
「私はここの院長ですが」
「じゃあ、早く始めてよ。僕は今日中にやらなきゃだめなんでしょ?」
「おお、失礼。お急ぎでしたか。でももう、だいたい問診は済みましたから」
老人は立ちながら、柱に付いたボタンのようなものに手をかけた。
「大丈夫です、まだまだ半日以上ありますし」
茶の間の畳が一枚、ワニの口のようにパッカリと開いた。口を開けた床からは、下方へ続く階段。
「どうぞ。こちらへ」
相変わらず訳の分からないまま、老人の後に立って階段を下る。
「お気をつけて」
背中に、気遣う老婆の声が聞こえた。