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怪力おじさんからの手紙:最終話

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ansuke

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扉の向こうで、怪力おじさんは眠っていた。

 

田村刑事が扉を開くと、えも言わぬ腐臭が鼻の奥から脳へ突き抜けた。

俺は思わず手で口と鼻を覆った。顔をしかめるアキヒコと、目が合う。

大量のわら半紙が散乱し、足の踏み場もなかった。

ほとんどの紙には、鉛筆書きで書かれた文字がびっしりと並んでいた。

部屋を埋め尽くすような紙の真ん中の小さな座卓が置いてある。

人間が座卓の前で仰向けに横たわっている。

それが怪力おじさんの細く小さな亡骸だった。

 

矢沢さんが、部屋のあちこちをカメラで撮影する。

溢れ返る紙の出元は、戸棚の上に上げてある小さな神棚だった。

神棚に乗り切らない紙は戸棚の上に重ね、やがて戸棚から溢れた紙が、

床を埋め尽くしているようだった。

紙の中から一枚を手にとってみた。

 

やっていないやっていないやっていないやっていないやっていない。

 

読んでいると、どこからともなく音が聴こえてくる。

田村刑事は淡々と紙を手にとって一瞥しては、他の捜査員へ手渡していった。

 

やっていないやっていないやっていないやっていないやっていないやっていない

やっていないやっていないやっていないやっていないやっていないやっていない

 

次に、座卓の上には、開いたままのノートが置いてあった。

田村刑事と矢沢さんが、ふたりで中を確認する。

手帳を持つ田村刑事の手元に目をやると、それは日々の日記であるようだった。

日付は三ヶ月くらい前になっている。

 

「二ヶ月程前から、文体が意味をなさなくなっています」

矢沢さんが報告する。

一番最後の日記は二週間前だった。

 

ムササビ製と何を目薬投げて切った貼ったでミスター八百長下水道配管工事。

手のひら返してその門バラック模様の秋の蜃気楼合点オカマ相撲いのしし場所の原住民でもない。

お地蔵ごっこのカセットテープに切り替わる空。

天下夢想の桐ヶ谷斎場おんなこどもの豚薔薇にんにくサンダー矢にしたそれもろシャバの白鷺。

怪力おじさん

 

「怪力おじさん」と確かに書いてあるのが見えた。

「あぐを」、「い」、「そじむ」、「つぬぽめ」、「るぬ」、「いふろんた」

人魂のようにゆらゆらと揺らめきながら、文字の影が怪力おじさんの亡骸の口腔から

気泡のように湧き出て、虚空を漂っては消えてゆく。

うわんうわんと頭を割るような轟音が、耳からではなく脳の中心や五臓の底から炸裂し、拡散した。

耐えられなくなったアキヒコが耳をふさいで叫びながら外へ飛び出した。

俺はそこにいなければいけない義務感に囚われたまま、立ち尽くした。

  

「申し訳ありませんでした!」

田村刑事が轟音に勝る、怒声にも似た声量で叫んでいた。

すると辺りを埋め尽くしていた音の波は静まり、ピーンと張り詰めた湖面のような静寂が部屋を包んだ。

田村刑事が怪力おじさんの亡骸の前に、跪いた。

となりにいた矢沢さんの腕を強く下へ引いて、座らせた。

田村刑事は合掌し、深々と一礼する。

「申し訳、ありませんでした」

一礼したまま嗚咽を漏らし、怪力おじさんの亡骸へ向けて何度も謝った。

矢沢さんも、戸惑いながらも合掌したまま腰を深く折った。

怪力おじさんの眼は天井を見つめたまま、

開いた口からはいつまでも言葉の気泡が浮かんでは消えていった。

  

「怪力おじさん」が発見された翌日には、人々が喋る言葉も以前の形を取り戻した。

言葉という記号が全く意味を持たなくなった奇妙な事件は、不思議なくらいすっかり忘れ去られていた。

身元確認が終わった後、「怪力おじさん」大崎勇蔵の遺体は故郷に帰されて埋葬されたという。

数日後、家のポストに一枚のわら半紙が入っていた。

 

雪が溶けたから、もう帰る。

怪力おじさん

 

その言葉は、どもってもなく不可解でもなく、しっかりと心を伝えていた。

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