<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?><rdf:RDF 
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#" 
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xml:lang="ja">
  <channel rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/">
    <title>新生人工言語論</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/</link>
    <description>新生人工言語論</description>

    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:date>2011-07-28T22:16:24+09:00</dc:date>

    <items>
      <rdf:Seq>
                <rdf:li rdf:resource="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/50.html" />
                <rdf:li rdf:resource="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/1.html" />
                <rdf:li rdf:resource="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/59.html" />
                <rdf:li rdf:resource="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/2.html" />
                <rdf:li rdf:resource="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/108.html" />
                <rdf:li rdf:resource="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/107.html" />
                <rdf:li rdf:resource="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/34.html" />
                <rdf:li rdf:resource="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/72.html" />
                <rdf:li rdf:resource="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/58.html" />
                <rdf:li rdf:resource="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/44.html" />
              </rdf:Seq>
    </items>
	
		
    
  </channel>
    <item rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/50.html">
    <title>架空言語・空想言語</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/50.html</link>
    <description>
      ●まず架空言語の実例をご覧ください。

[[人工言語アルカ&gt;http://constructed-language.org/arka/index.html]]
----

ウィルキンズのような人文系の百科全書的な人工言語がある一方で、ライプニッツのような理数系のコンピュータ的な人工言語が存在した。いずれにせよ哲学的言語であり、普遍言語である。この区別でも厄介なのにましてもってアダムの言語という神秘主義が加わる。しかも全員がアダムの言語を夢想するというのであれば話は早いのだが、事情は入り組んでいて、人によってはそのような神秘主義を否定していた。人工言語学上の分類としては数学的か百科全書的かといったような言語の構造については注目すべきである。一方アダムの言語が意図されたかどうかは動機にすぎないので、致命的に重要というほどではない。勿論動機を知ることでなぜそのような言語に至ったのかを知ることができ、その意味では重要であることを加えておく。

ところで当時はウィルキンズらのような普及型の人工言語しか存在しなかっただろうか。否。たとえば暗号型は速記文字の開発などの形で行われていた。まして当時は剽窃が多かったため、暗号は必要善であった。他方でこのころの西洋人の世界観の広がりが新たな人工言語を生んだ。演出型である。異邦人の言語に関する興味は古くから存在してたものの、それが爆発的な流行になったのは西洋人の世界観が広がってからのことである。アジア、アフリカ、アメリカなどが発見されるにつれて異邦人の言語や文化が西洋に知られるようになる。旅行者や行商や宣教師から伝え聞いたり、或いは自分自身で見聞したことを基に小説を書く。この中で述べられる異国はしばしば誇張されたり人伝ゆえに空想的なものであった。小説で述べられる言語はしばしば実際のものとは異なっていたし、場合によっては作者はそうと知りつつあえて書いていた節もあった。

この風潮が広まるにつれて、ジャーナルとしての言語ではなく始めから空想世界の言語というものが考案されるようになった。当時まだ発見されていなかったのはオーストラリアであったから、ここはよく舞台に使われた。また、月やその他の惑星もよく舞台に使われた。知的生命体がいると一部に考えられていたためである。これらの架空言語や架空世界は西洋人の期待や夢から生まれたものであるため、通常は理想言語や理想世界であった。トマス＝モアに代表されるようなユートピア思想の一環である。これに当時の普遍言語論争が併行していたため、理想言語は概して簡単な文法を持ちすぐに習得できる言語と捉えられていた。

このユートピア思想は19世紀末のブルワー＝リットンごろの反ユートピア思想まで優勢であった。

尚、オーストラリアはアリストテレスやプトレマイオスのころに想像された「南の大陸」であった。これは大航海時代1600年台初頭に発見された。したがってたとえばフォワニーの『アウストラル大陸発見』(1676)のときは厳密にいえば未発見ではない。地理上の発見以前から未知の大陸オーストラリアについての想像は多く行われ、実際に発見されてからもすぐに情報が詳しく伝わるわけではないのでやはり摩訶不思議な世界として考えられてた。ちなみにこれは月も同様で、当時は鳥の渡りの原因が知られておらず、鳥は月に渡るものと考えられていた。そういうわけで月はオーストラリアと同じく未知の世界で、架空言語の格好の舞台であった。他の惑星についても概ね同様である。

著書『ユートピア』で有名なトマス＝モアは理想化された世界の中に理想的な言語をも置いた。理想の世界の言語、言い換えれば想像や架空の中の言語に足を踏み入れた彼は前衛的な存在であった。ただ、彼の創作した架空言語は後験語ではあるものの、基になった言語はギリシャ語などの西洋語であった点に注意する。

ゴドウィンの『月世界の人』(1638)は小説の中で自言語を展開している。大きな普遍言語論争の渦中であったため、演出型とはいえ、彼もまた哲学言語を構想していた。そのためこれを完全な演出型と述べることはできないが、大まかに分類するのなら演出型であろう。ゴドウィンが中国語から影響を受けていたのは明らかで、実際作中で主人公は中国に赴いている。ここで中国語は音楽的な言語という定義を受けている。そして月世界はというと、ここではたったひとつの普遍言語が使われていた。アダムの言語を彷彿させるユートピアな設定である。月世界の言語は音楽的であり、ここに中国語の影響が見られる。音声においてゴドウィンの言語が中国語を参照言語にしていることは明らかである。しかも主人公は２ヶ月で月の言語を習得している。このことは普遍言語の特徴である「覚えやすさ」を当然のこととして受け入れていることを示唆する。

シラノ＝ド＝ベルジュラックもまた月世界の言語を小説で展開している。ゴドウィンと異なるのは唯一の共通語があるというのではなく、社会的地位という位相で言語が二分されているという点である。上流階級はやはり中国語を意識した音楽的な言語を話し、下層階級は身振りの多い言語を用いている。

身振り言語をどう見るかというのはこのころ人によって異なっていた。たたとえば『セヴァランブ族物語』(1677) の著者ドニ＝ド＝ヴェラスは身振り言語について否定的である。そのヴェラスのセヴァランブ語であるが、これは意外にもエスペラントの走りともいえる言語である。というのも、自然言語から論理的であると考えられた要素を寄り集めている後験語だからである。ただ論理的過ぎてしばしば格変化などの文法システムはむしろ自然言語より細分化されている。かといってそれを一々覚える必要はなく、規則に基づいて推測可能である。

エスペラントと異なるのは自然を強く意識し、その性質を言語システムに取り入れている点である。存在を有生・無生ならびにオス・メスに分け、その区別は動詞にまで及んでいる。つまり主語が有生であるか無生であるかによって動詞が異なった屈折をするということである。したがって「石が憎む」というような恐らく考えられない文においても「憎む」は一々無生用の変化をするということである。憎むのように有生しかできなさそうなものであってもこの屈折は及ぶので、動詞の活用形の総数は悪戯に増える。尚、音については母音が10で子音が30である。そこに多重母音が加わる。更に音調などを表す６個の記号が使われた。これらの音素は筆記文字で表された。

身振り言語について肯定的ではないヴェラスとは対照的に、ガブリエル＝フォワニィはむしろ言葉は抽象的なことや難解な議論といったものを表すだけのものとされ、他は身振りで代替するとしていた。それは南方大陸すなわち今日のオーストラリアの言語について執筆した際に明らかになっている。フォワニィは普及型の普遍言語の影響を受けており、概念については分析を元に命名をしていた。たとえば母音は火、空、塩などの単純な要素を与えられた。子音は明るい、熱いなどを与えられた。分析に基づいた文字の組み合わせで単語を表現していた。勿論この過程で発音しづらい単語が算出されることはいうまでもなく、フォワニィの言語は実用的とはいえなかった。語彙については完全に先験語である。また彼は文字も作っており、アルファベットと字形の異なった筆記文字を作っている。

ティソ＝ド＝パトは彼らに後続して『ジャック・マセの冒険旅行』(1710)で自言語を展開した。コンセプトは規則性と簡潔性である。音は母音が７種で子音が13種である。文字はアルファベットを使用する。文法はラテン語よりは簡単だが、複合完了や分詞がある点でやはり西洋語が参照言語になっている。パトで特筆すべき点はヴェラス同様自然言語を参照し、それを易しくしたことにある。動機は異なるものの、この点でやはりエスペラントの着想に近い。

一般的に架空言語の作者は普遍言語の作者ほど厳密ではない。普遍的な完全言語を作るという目的の下では科学的な手法やミスや漏れのない正確さや厳密さが重要視される。記憶術に関連して徹底的な語彙圧縮を行い、習得の容易さを訴える。それに比べて演出型の架空言語や空想言語はそれほど深刻ではないので「簡便なラテン語」などといった着想に至りやすい背景を持っていた。それが原因で、中にはエスペラントに似たものが生まれた。彼らが求めたのは創造性や工夫であり、面白味である。

その結果、普遍言語の手法に比べて奇抜なものが出てくる土壌にあった。その点で人工言語学としては興味深い。    </description>
    <dc:date>2011-07-28T22:16:24+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/1.html">
    <title>トップページ</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/1.html</link>
    <description>
      #image(sorxe.jpg)


サイトを移転しました。
新生人工言語論は「人工言語の作り方」と「人工言語学」に分離しました。

[[人工言語学研究会&gt;http://constructed-language.org/]]
[[人工言語アルカ&gt;http://constructed-language.org/arka/]]
[[人工言語の作り方&gt;http://constructed-language.org/create/]]
[[人工言語学&gt;http://constructed-language.org/conlinguistics/]]









.    </description>
    <dc:date>2011-07-22T21:09:28+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/59.html">
    <title>回顧録</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/59.html</link>
    <description>
      筆者の人工言語に関する体験談をまとめたものです。

[[新語の補充と普及]]
[[人工文化による警鐘]]
[[自文化の排他]]
[[人工言語は世界語になれるか]]
[[実際に人工文化を使って単語を作ってみる]]
[[表意文字の思い出]]
[[英英と英和、どっちを先に作るべき？]]
[[最小対語の処理法]]
[[人工言語で感情を起こせる？]]
[[ピクトグラム]]
[[人名について]]
[[語の音が卑語に似た場合]]
[[高級語の命名法]]
[[人工言語は簡単か]]
[[自然物以外の高級語]]
[[ゼロから語彙を作るには]]
[[人工言語の素質と経験]]
[[エスペラントとアルカ]]
[[エスペラントの声]]
[[言語に優劣の差ってあるの？]]
[[人工言語とRPGツクール]]    </description>
    <dc:date>2011-07-07T10:07:49+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/2.html">
    <title>メニュー</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/2.html</link>
    <description>
      **メニュー
//#search3()

***よくわかる人工言語

-[[トップページ]]
-[[人工言語]]
-[[作り方]]

***もっと知りたいかた

-[[人工言語２]]
-[[言語学的に矛盾しない人工言語の作り方&gt;http://leviantarka.web.fc2.com/study_yulf_146.html]]
-[[回顧録]]
-[[人工言語学]]

2008/09/16～    </description>
    <dc:date>2011-05-07T22:48:53+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/108.html">
    <title>In the Land of Invented Languages by Arika Okrent</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/108.html</link>
    <description>
      アリカ＝オクレント氏の&quot;In the Land of Invented Languages&quot;を推薦します。
こちらでは、人工言語の有名どころを抑えながら、人工言語の歴史を通覧できます。
エスペラントなどの超有名どころはもちろんのこと、日本ではあまり情報の得ることのない言語についても詳しく書かれています。

著者ご自身はクリンゴン語に精通しているとのことです。
著書内にもクリンゴン語に関するページがあります。

巻末には付録があり、人工言語のリストが時系列順に並べてあります。
この付録はかなり豊富で、500にも及びます。
ビンゲンのヒルデガルドの&quot;Lingua Ignota&quot;に始まり、2000年以降のものまで含みます。
ただし欧米人の作った言語が主体となっています。

洋書ですので、amazonで購入されることをお勧めします。
赤いペーパーバッグのほうがお求めやすいと思われます。

公式サイト：http://inthelandofinventedlanguages.com/
amazon：http://www.amazon.com/gp/product/B001NLL2Q6/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_3?pf_rd_p=1278548962&amp;pf_rd_s=lpo-top-stripe-1&amp;pf_rd_t=201&amp;pf_rd_i=0385527888&amp;pf_rd_m=ATVPDKIKX0DER&amp;pf_rd_r=1B7CR3ZH75AXM5F74ZPH    </description>
    <dc:date>2011-02-19T09:47:29+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/107.html">
    <title>推薦図書</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/107.html</link>
    <description>
      [[In the Land of Invented Languages by Arika Okrent]]    </description>
    <dc:date>2011-02-19T09:37:55+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/34.html">
    <title>人工言語学</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/34.html</link>
    <description>
      学問としての人工言語を論じています。非情に専門性の高い表現が出てきます。語調は論文体で統一しています。

[[人工言語の定義]]
[[人工言語と言語学]]
[[人工言語の類義語]]
----
[[人為性による人工言語の分類]]
[[先験と後験による分類]]
[[目的による分類]]
//[[文化・風土による分類]]
[[比較言語学的分類]]
[[類型的分類]]
----
[[黎明期（１）]]
[[黎明期（２）]]
[[黎明期（３）]]
[[普遍言語へ至る背景]]
[[普遍言語]]
[[架空言語・空想言語]]
[[普遍言語の成果]]
[[国際語・国際補助語]]
[[グローバル社会の人工言語]]
----
[[音韻論・音声]]
[[形態論・統語論]]
[[意味論]]
[[文字論]]
[[文化論]]







.    </description>
    <dc:date>2010-10-31T16:31:56+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/72.html">
    <title>高級語の命名法</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/72.html</link>
    <description>
      （注）後述の新生人工言語とは文化を定めた言語程度の意味です。 

千前後の基本語や、もう少し多い日常生活語を作り終えると、次は高級語に入ります。これは数が多くて大変です。
ここでは高級語の命名法について述べますが、機械類より広域性の高い自然物に特化して説明しています。

ここで述べたいのは形態論ではありません。形態論に関しては先にさらっと述べます。
形態論的にみれば高級語は合成語が便利でしょう。辞書が引きやすいし、1語で1つの概念を表わせるからです。
フランス語の場合、連語で高級語を表わすことが多いので辞書が引きづらいです。しかも何語で1つの概念か分かりづらいので、見づらいです。

フランス語には高級語だけでなく、基本語にもこの性質が生きています。
たとえば蹴るという概念について。蹴るに当たる語がないわけではないのですが、donner un coup de pied（足の一撃を与える）ということがあります。
kickやpunchというレベルで言い分けるのではなく、coup（一撃）という上位概念を使うことによる言い分けです。この性質がフランス語では高級語にも及びます。
ドイツ語のように長大な語にはなりませんが、スペーシングと前置詞が入った分、結果的に更に長くなります。

基本語の例をもうひとつ挙げると、蛾はドイツ語ではNachtfalterですが、フランス語ではpapillon de nuitです。結果としてフランス語のほうが長くなっているのが見て取れます。
フランス語批判をしたいのではありません。人工言語で高級語を作るときは合成語を推奨すると言っています。

合成語にも欠点はあります。合成語の要素間の関係が掴みにくいことです。
たとえば「前掛け」の先行要素「前」は前半身という場所を指しますが、「涎掛け」の「涎」は場所でなく防ぐ対象を指します。
しかしこの程度なら常識で判断できますから、一々混乱しません。

合成語は要素間の関係が掴みにくいのが欠点ですが、関係を掴みやすくするために前置詞に相当するものを接辞化すると、今度は語形が長くなります。
あっちを立てればこっちが立たずですが、要素間の関係は慣例として学習者に覚えさせることにしたほうが語形が短く、実用時に便利です。さて、形態論はこのくらいにしましょう。

人工文化がどの程度の科学力を持っているかによって、高級語の内容は変わります。
科学が発達した文化なら当然、それを表わす語が必要になります。
人工文化の場合、その文化の科学史から作らねば適切な命名ができません。しかし個人や小団体で科学的な命名法を多岐に渡って作るのは不可能です。

作ろうとしても完成する前に寿命が尽きますし、科学の成長に追いつけません。
2005年から科学の語を全て作ったとしましょう。たとえば2100年に作業が完成するかもしれませんが、完成したのは2005年までの内容で、作業中の95年分の進歩に付いていっていません。
こちらが作るより遥かに多くの人数が造語を繰り返しているので、追いつくことさえ無理でしょう。

また、ゼロから自分たちで現在の地球の科学力を越えた文化を創るのも事実上不可能です。 
SFチックないい加減な設定なら可能でしょうが、細かい専門用語を専門知識に則って作る人員と時間はありません。

そこで結論としては、ある程度現在の地球の科学力に頼って、限られた範囲を命名するしかありません。
まぁ、実際問題、そのような高級語は作ったところでまず使うことがありませんから実用に支障はないでしょう。
語を作るのはその分野が必要になったときでいいでしょう。必要になったら作るというのは言語の基本的性質にも合致します。

極端な話、科学の乏しい文化を作り上げれば科学の語彙は要らないのですが、それだと現代の先進国では表わせない物が多くなってしまい、困ります。
日常で科学が介在しているものは多いです。家電やPCや薬など、枚挙に暇がありません。

一方、仮に科学の語彙を狭めたとしても、依然として変わらないのは自然物の語彙です。
動植物など、その風土に存在するものは科学力に関係なく命名せねばなりません。ところがこれがかなり多いです。
ここからは普及型も考慮して人工言語全般で自然物の命名法について考えていきましょう。

自然物を命名する際、人工言語一般の立場に立つと、できるだけ広範囲の動植物を公平に命名したいです。
牛を重宝する文化に焦点を合わせてしまうと、牛ばかり細かく分類されて不公平です。そこで、なるべく人工言語としては公平に行きたいものです。
となると思い当たるのは自然科学です。国際的な自然科学の分類にしたがって命名できれば、少なくともどこかの言語の分類に合わせるよりは広範囲で公平といえます。

かといって自然科学はある対象が日常的か否かなど気に掛けてくれませんので、リンゴのような卑近なものにも長大な名を付けます。
そこで、基本語については自言語のやり方で動植物の名を決めましょう。
後験語なら参考言語から語を拝借し、新生人工言語なら文化に沿って動植物を分類し、命名しましょう。
それが終わって初めて滅多に出てこない自然物、つまり高級語を命名し、その際に自然科学を利用しましょう。

自然科学は分類が民間分類より遥かに細かいので、緻密な命名が可能です。ただし学名をそのまま訳すと語形が長くなるので、邦名を付けるが如くできるだけ簡素なものにしましょう。
また、学名を単に簡素に訳すのでも構いませんが、調査の上で自文化に基づいた命名をするのも良いでしょう。
たとえばダチョウは最大の鳥なので「大きい鳥」を語源にするのもいいでしょう。（もちろん、他の命名でも一向に構いません）

こうしていけば当面必要になるレベルの自然物を命名することができます。
これで自然物の高級語は大丈夫？　いえ、実は自然科学による分類は万能ではありません。
以前私はリンゴなど卑近な単語以外について科学的な命名をしましたが、以下の3つの点で戸惑いました。

1つは科学を参考にすると、科学の変化によって一度決めたものが変わってしまうということ。
ある学説を境に、ある動植物の分類や信じられていた性質が変わってしまうということがありますが、地球の科学に合わせていると一度作った語を変えねばなりません。
変えないと間違いがそのまま残ります。最近の例だと「冥王星」とかね……。

2つは、科学の歴史のせいで変な分類になった動植物の命名です。
ホタルイカはホタルイカモドキ科です。ホタルイカの方が下位なのに、歴史的にホタルイカが早くから馴染まれていたからだそうです。
我々から見れば奇妙なこの科学的命名に対し、人工言語が一々付き合うのは不自然な気がします。
もう科学的な答えを知っている私たちが上位であるホタルイカモドキにモドキと命名するのは不自然です。

しかし、これらは世界と調和する普及型にとっては瑣末な問題でしょう。
問題は3つ目です。自然科学的による命名は、日本語の動植物命名などより遥かに細やかな定義を可能にします。非常に便利です。
しかしながら、科学分類よりもむしろ民間分類の方が細かく、しかも定着しているものがあるのです。

たとえば鷲と鷹は科学的には同じタカ科で、大きさでぼんやり区別しています。そのせいで専門家でもまとめてワシタカ科などと呼んでいた経緯もあるそうです。科学的には鷹匠は鷲匠でもいいのですね。ちょっと不思議な気がします。
しかし、日本語は鷲と鷹の区別を持っています。日本語だけならいいのですが、どうも日本語に特殊な区分ではないようです。

　英：eagle　　　　hawk
　独：der Adler　　der Falke（含ハヤブサ）
　仏：l&#039;aigle　　　　le faucon（むしろハヤブサ）
　エス：aglo　　　　falko
　芬：kotka　　　　haukka
　中：jiu4　　　　　ying1

つまり、自然科学では却って分類できないか、控えめに言っても分類しづらい概念があるということです。
そうなると自然科学を絶対視して自言語に鷲と鷹の区別を設けないか、そうでなくば、いくつかの自然言語を調査して、多くの言語で区別されている概念は特別に自言語でも区別するかのどちらかを選ぶことになります。

多くの自然言語に存在している鷲と鷹の区別を科学の名の下に切り捨てて良いのでしょうか？
別に私たちは科学分類表を作っているのではありません。あくまで言葉を作っているのです。
その意味では科学に逆らって鷲と鷹を別の語として立てたほうが自然でしょう。

鷲と鷹は卑近な語なのでいいのですが、もっと込み入った語になると更に困惑するでしょう。
自然科学を利用した命名は確かに強力ですが、万能ではないということを覚えておいてください。

人工文化を持つタイプの新生人工言語は自文化に沿って命名するので鷲と鷹の区別が科学にあろうとなかろうとどうでもいいのですが、普及型の場合、鷲と鷹は国際的な科学で解決できない問題なので、戸惑うことでしょう。
そのような場合、メジャーな自然言語を調査し、多数決で決めるのが実践的です。つまり、科学で掬いきれなかった零れを自然言語で補完しようということです。    </description>
    <dc:date>2009-11-06T13:37:23+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/58.html">
    <title>文化論</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/58.html</link>
    <description>
      （注）後述の新生人工言語とは文化を定めた言語程度の意味です。

通時論で見たように歴史的にはそれぞれの文化を反映する人工言語というものは無かった。細かく見ればダルガーノのように同じ対象を別の名で命名しわけることもできる言語もあったが、元々異文化を広く表せるように設計されたというわけではない。その原因は西洋人の世界観にある。普遍言語時代にせよ国際語時代にせよ西洋で起こった運動である。確かにこのころ既に西洋人の世界観は地球規模まで広がっていた。西洋とアラブとアフリカしか知らなかったような時代ではない。しかしそれでも文明の中心は西洋にあった上、人工言語の運動が西洋で起こったともなれば、人工言語が西洋中心に作られることは当然であろう。

ところで前述したとおり言語と文化と風土は不可分である。不可分であるといってもイギリスで発生した言語をオーストラリアで使えないという意味ではない。言語は実に柔軟な代物である。ただ変化のたびにその言語が使われている環境から影響を受ける。オーストラリアで使えば当然そこにいる動物の名前を表す単語ができるだろう。これは日本語でも同じである。仮に日本人が全員イヌイットの地で暮らしたら、やがて「秋の日はつるべ落とし」といった慣用句は絶滅するだろうし、「五月雨」「梅雨」といった語も文献の中に残るのみになるだろう。その代わり元々日本に無かったような様々なバリエーションの雪や氷の地形などの略語が生まれるだろう。

言語はこのように環境に適応する非常に柔軟なものではあるが、必ずその柔軟さの影に文化や風土などの環境が控えている。

歴史的に見ていままでは西洋中心の人工言語界であったため、人工言語は西洋的なものが多かった。エスペラントやヴォラピュクを祖とする国際語の系譜が好例である。ウィルキンズらの百科分類を用いても通時論で見たとおり西洋の観点で分類がなされていた。西洋を前提とするのは言語面だけでなく文化面や風土面にまで及んでいた。たとえば兄弟の長幼を言語面で気にしない英仏語などの文化がそのままエスペラントにも現われている。また、actor, actressのように男女を一々気にする西洋語の文化を反映して、エスペラントも女性接辞の-in-を持つ。更に言えば男性無標というのも西洋の価値観である（勿論西洋以外でも男性無標は存在するが）。至るところに西洋の文化風土が根ざしているため、そういった言語は非西洋圏には扱いづらい。その不平等は西洋が世界の中心であるうちはまだ我慢されていたが、アジアなどが台頭してきた前世紀末および今世紀においてはその不平等さが顕著に意識されるようになった。そこで特に普及型を中心にどうにかして文化の違いを乗り越えられないかという議論が勃発し、作者は打開案を捻出した。文化の違いを乗り越える計画は新しいものではないが、それを地球規模で実際に取り組んだのは特に20世紀後半以降の話である。

そういう流れで歴史的必然として生じてきたのが、たとえば西洋だけでなくアジアの言葉を混ぜた人工言語である。これは参照言語を増加させた後験語と定義される。参照言語を増やす言語の性質とは何か。まず利点は、特定の狭い地域を参照にすることがないため広範に受け入れられやすい点である。この利点は言語面より精神面、つまり学習者がその言語を受け入れようとする精神に関わるところが大きい。欠点は広範に言語を参照して文法を折衷すると整合性のない文法ができる点、語彙の流入元が増えるので学習者にとって知らない言語から単語が作られやすい点である。

特に後者が問題で、たくさんの言語や知られていない自然言語から流入すると事実上の後験性が薄くなる。水という単語をフィールドワークも殆ど入っていないような言語から後験的に取り入れても学習者にとっては先験的にしか見えない。ラテン語のアクアは仏教を通じて日本語のアカになったが、よほどこれを根拠に水をアカとしたほうが理解されるだろう。尤もこれは分かりやすくするための極端な例で、実際そうする人はいない。だが広範に参照言語を選ぶということは学習者にとって馴染みのない単語から流入する確率を増やし、後験語である意味を薄めてしまう。これが欠点である。

他方、作者が捻出したものは他にもある。上記は後験語による打開策である。先験語による打開策はたとえばピクトグラム系では同じ普遍文字をそれぞれの母語で読ませるという方法である。自然言語のほうが分かりやすいので漢字を例に取ると、たとえば「国」という文字は日本語では「コク」で中国語では「クォ」で韓国語では「グク」である。音読みだけとっても既に音がそれぞれ違う。カンコクのことをハングクと言われたら我々は何のことだか分からない。しかし「韓国」と書かれれば分かる。また、ミズのことをムルと言われたら何のことか分からないが、「水」と書かれれば大雑把には意思疎通ができる。このように読みはそれぞれ違っても字が共通していればそれぞれの母語の読みを保ちつつ意思疎通が図れる。こういうのはピクトグラムが得意な分野であり、着想としては普遍文字時代に遡るものである。尚、大抵この手の言語は現在では母語読みだけでなくその人工言語オリジナルの読みも持つ。喋るときはこの読み方を使えば音声面でも意思疎通が図れるというわけである。

しかしこの方法にも短所がある。ピクトグラムの読みを覚えないと会話には使えないという点。読みが規則的に決められている言語はウィルキンズのものと同じく類音の聞き違い問題に苦しむ。逆に読みに規則がないと単なる先験語だから漢字を覚えるのと同じくらい手間がかかる。つまり使いにくいか学びにくいかの選択肢を迫られる。折衷案を取ろうとして聞き違いを減らすほど、母音の追加が行われたり規則性が減ったりして学びにくくなる。ただ最も実践的なのはこの折衷案であろう。何より聞き違いの問題が酷くて使いづらい言語は普及の理念に合わないからである。がんじがらめでない緩い規則、聞き取りと発音のしやすさ。折衷によるこれらの実現が最も実践的であろう。

一方、表音文字の先験語はどうか。ピクトグラム系の打開策は使えない。どうすれば地球上の多用な文化に耐えられるか。ひとつは文化をできるだけ漂白して平等を装う手段である。これは地球上の文化を全て折衷するというちゃんぽん文化を作る方法ではない。文化に関係なく概念を決める方法である。農耕文化と牧畜文化では作物や家畜の細分化の程度が異なる。そこで、あえてこれを徹底的に細分化しないという方法が考えられる。たとえば米はriceだけ、oxやcowは牛だけといった大雑把な区切りである。水とお湯の区別もなくwaterに一本化。兄弟もsiblingしか作らない。寒いところでも雪はsnowしかなく、局所にしか見られないオーロラなどの現象は方言として造語するか基本語の合成で作る。

こういった手法は要するに「世界の最大公約数」を得る手段である。細部の差異が漏れ、地球人としての共通部分だけが残る。そのレベルで命名すれば文化も風土も関係ない。なるほどこれは確かに実現可能である。ウィルキンズのように細分化に細分化を努めた百科分類の時代とはまるで逆で、むしろ粗い最大公約数を得るという方法で文化と風土の影響を殺そうとするものである。

ただ、この欠点はすぐ考えられる。言うまでもなく全ての地球人にとって平等に使いづらい。なにせ自分の文化や風土が反映されないのだから。そうなったら明日から妹と呼ぶのに一々「女で若いほうのsibling」と言わねばならない。これは面倒だし、かといってsiblingだけにして妹も兄も区別しないというのは日本人の感性に合わない。この使いにくさが最大の欠点である。

ではこの欠点を更に補強できないだろうか。実はある。そもそも異なる環境にある言語を全て一緒くたにしようという考えは不自然そのもので、社会的観点以前に不便さの点で世界中が同じ言葉を喋るというのは実現しない。英語が世界中に広まっても方言化するのと同じで、普及型の人工言語にも方言や位相を認めるのが実用的である。そこで各文化風土ごとに概念の細分化を設定する。日本語や中国語圏のために兄や妹を規則的に作る接辞を与えるか、そもそもそれらの概念を表す単語を作る。人工言語Lにおいて兄弟を表す基本レベルの語を仮にetuだとする。この大雑把さに違和感を覚えるのであればLの位相L’では接辞を用いて妹をetunなどとすればよい。或いはそもそも別の語根を取って妹をmeiなどとすればよい。そしてこの単語を長幼・性別を区別する文化圏全てに適応する。すなわち中国・韓国・日本は世界語としてのetuを持つと同時に、地域語として全て同一のetunないしmeiという語を持つようになる。３ヶ国語の「妹」という単語がまとまるだけでもそれぞれの言語の単語を個別に覚えるよりは楽である。

このようにして方言を設定していく。要するに同じ文化の型を持つ言語には同じ区分で単語の設定をするわけである。ピクトグラムを持たない表音文字先験語にとって、これは文化ごとの差異を表す方法であろう。

尚これら３国の中にもetuという基本レベルはきちんと語根として残っているため、地球規模で使うとなれば意思疎通は可能である。日本人が日本語では姉と妹を区別しても英語を喋るときにはまとめてsisterというのと同じ感覚で、国内ではmeiといい、国際的にはetuといえば良い。恐らく基本レベルであるetuがL’のネイティブにとっては外来語のように映るようになるが、日常的に使わないのであればその認識でよい。

こうしていくと基本レベルと違う方言がたくさん出るのではないかと考えられる。だが恐らくそれは大きな数には昇らない。まず、品詞としては殆ど名詞に限られる。文化による差というのは最も名詞に表れやすい。動詞については殆ど文化差はない（語法差は当然あるが、それは自然言語であろうと人工言語であろうと同じ。）

「行く」などの概念が文化によって決定されるとは到底思えない。行くとgoの違いは語法差にあるが、この語法差は文化によってできたものとは考えづらい。対象言語学では「来る」とcomeを対照し、視点が起点に置かれるか終点に置かれるかの違いを論ずることがある。それを以って日英の視点の違いを述べることがある。だがこうした見方の違いの原因を文化に帰することはできないし、できても極めてこじつけに近いと判断されるだろう。 comeの見方自体が英語の物の見方になって新たにひとつの文化を形成するということについては否めないが、comeそのものの語法がイギリス文化を背景にしているとは言えない。

動詞について文化が出るとすれば調理動詞などであろう。穀物は煮て繊維を柔らかくしないと食べられないものが多いので、穀物ばかりで生きている風土にあれば煮る系の動詞が細かい可能性がある。肉を一切食べないところでは焼く系の動詞が細分化されにくい可能性がある。だがこのような動詞の例は珍しい。

形容詞についても同様で、熱いや寒いなどはどの言葉にもある感覚であろう。ある概念を形容詞に当てるかどうか言語によって異なるが、いずれにせよ「熱い」などの形容概念を持たない言語はないだろうから、これも文化が関わるものではない。文化が関わるとすればたとえばワビサビなどの特殊な感情に限られる。したがって一般的な感覚や感情を定めておけば形容については概ね問題ない。

機能語については更に普遍性が高いため、大きな問題は生まないだろう。そうして見ていくと名詞に主に気を付けていれば良いことになる。また、この名詞というのもあくまで基本語の範囲内であることが多い。米、牛、妹など、どれも基本語である。パソコンはどこでもパソコンのままで困らないだろうから位相差を付ける必要性を感じられない。スピーカーやウィルスや肺塵病についても同様である。そう考えると基本名詞に位相差を付けていけば概ね問題ないということになる。

したがって世界の最大公約数を得た上で、基本名詞に位相差をつければ良い。方言化されるのはそういった一部の語だけになるので、文化差を付与しながらmeiと言いつつ国際語のetuを覚えるという作業はそう大変なことではない。それに国内および同じ文化の型の中で使う分には自分の文化の型の語だけを使えばいい。たとえば日本でいえば中国、韓国といった比較的広範囲でmeiだけ知っていればいいことになる。各国語の違いを覚える必要はない。

確かにこの欠点は自分の文化の型と異なる単語を覚えなければならない点である。しかもその単語は基本語名詞を中心とするため頻度が高い。だがそれでも恐らく長所のほうが大きい。 Lの持つ単語数がｎだとしてもL’の単語数ｎ’個分の新しい語を覚える必要はない。基本名詞を中心に追加で覚えるだけである。高級語や機能語や用言類に関しては同じなので難しい話をすればするほど国際的に通じやすくなる。国際的に話をする必要があるのは概ねビジネス等においてであろうから、この性質は有利に働く。

さて、ではこういった言語Lを具体的にどう作れば良いだろうか。まずは世界の最大公約数を取って機能語、名詞、動詞、形容詞などを決める。最大公約数なのでその数はそう多くないから作りやすいだろう。この分類は作者によって異なる。ウィルキンズとダルガーノが同じオックスフォードにいながら異なる分類の細かさを持ったのと同様である。尚、単語は先験的に作っても後験的に作っても良い。その後はベネディクトの文化の型の実践ともいえよう。各文化の型ごとに基本語名詞を命名し、文化の型ごとに振り分けていく。たとえば「イモウト」や「メイメイ」を meiと定めるように。meiのような語を選ぶときも先験でも後験でも構わない。実際このmeiというのは中国語から取った後験語である。

さてここでetuのような語を国際単語或いは共通単語と呼び、meiのような語を位相単語と呼ぶことにする。辞書を作る際、両者は別々の項に載せ、しかも位相単語のほうに共通単語の見出し語を付けてリンクを貼っておくと良い。それによって位相単語の有標化が実現され、共通単語との違いが明瞭になる。普段は共通単語と位相単語の混成で喋り、国際的な場では共通単語を使えば良い。妹という語もmeiではなくetuの合成語を使って論理的に示す。

こういった言語作りをすれば文化の差を出しつつ普及にも耐えうる言語ができる。だがこれはあくまで「こうすれば文化差別感が無く、それでいてそれなりに使いやすい」言語案にすぎず、これで普及が実現できるわけではない。相変わらず七面倒なことに変わりないし、恐らくこんなものを学習するのであればエスペラントのような自然言語の模倣を選ぶのが人情だろう。

そう、実際人工言語で使われやすいものは取っ付きやすいものなので、普及を考えるなら言語のシステムなど見ないほうがいい。英語など既に広まっている言語を独自に簡略化した「人工ピジン」のほうがよっぽど広まりやすい。今で言えば英語の贅肉をそぎ落としつつもオグデンのベーシックイングリッシュほど痩せこけていない程度の改良英語を作って広めるのが最も成功の可能性が高い。そのせいで「英語帝国主義」や「英語の猿真似」と呼ばれるのは必至であるし、そもそもどう頑張ろうと本物の英語のほうが先に広まってしまうのだが、それでも七面倒な「文化的平等言語」を持ち出すよりは普及しやすい。

人間というのは実に勝手なもので、「帝国主義」「文化統一主義」などと批判しておきながら、実際学習する段階になると自己の経済的利益を考え、より自然言語に近い人工言語を選ぶ。いや、それ以前に英語そのものを学ぶだろう。ここで述べた「文化的平等言語」は17世紀の普遍言語の哲学性に20世紀の国際語の利便性を混ぜて作った思想的な産物であり、普及には向かない。繰り返すが、普及は社会的な要素で決定するので、文化的平等を掲げて文句の出ないようにしたところで、一部の人間の精神には歓迎されようとも、広く普及されはしない。人間はたとえ七面倒でも金持ち力持ちの言語を習得するものである。

しかし普及型で見なければ話は別である。こういった言語は哲学的な作品としては17世紀と20世紀の異なる歴史を昇華させたものであり、文化的平等・グローバリズムで見ても興味深い作品である。ウィルキンズ・ザメンホフ・ベネディクト・ソシュール、更には現代言語学のフィールドワークの成果、インターネットなどによるグローバル社会――こういった要素が揃って初めて成しえる言語であるから、過去にはこれと同じクオリティは実現不可能であった。確かに広まることはないが、普遍言語の性質も国際語の性質も備えている。恐らく今後はこういった歴史を踏襲して昇華した言語が創造されるであろう。尚、このタイプの言語は基本的に世界の最大公約数を求める作業で分類的になりがちであり、それゆえ先験語になりやすい。しかし語彙や文法を自然言語から取れば後験語に属することを加えておく。このように地球の文化を型ごとに分け、文化を反映した上で人工言語を作ることができる。位相単語は当該の自然文化を反映しているので、この人工言語は特定の文化を参照している。したがって新生人工言語である。

一方、自然文化でなく人工文化から人工言語を作る方法もある。先の方法はまず世界中に最大公約数的な共通単語を割り当てた後に方言として位相単語を割り振る方法であった。最初に粗く全体を決め、その後細かい部分を決めるという上から下へ向けての作成手順であった。今度はそうではなく、ゼロから文化を創造するという方法である。恐らくこれは最も難しい。もはや言語の範疇を越えているからである。文化とともに風土も作らなければならない。無論このようなものは実際には地球に存在しないわけだから架空である。小説の世界を作り込むように架空の世界を細かく作りこんでいく。それには膨大な知識と時間が必要である。そのため最も実行の難しい言語である。しかしオリジナリティにおいては最高のクオリティを有する。普及型としては役に立たないが、演出型や符牒型としては最高の品質を有する。

このタイプは人工文化という特定の文化を持つため、非常にエゴが強い。前述の文化平等主義は「最大公約数を求めた上で個々の文化差を表す」という意味で平等であった。しかし人工文化の場合は「どの自然文化にも依存しない」という意味で逆に平等である。つまりどの民族の文化にも肩入れしないという点において平等である。前者が融和的な平等ならば、後者は独立独歩による平等である。アプローチは異なるが文化的に平等という点では変わりない。ただ、後者はエゴが強い。それゆえ逆に演出型・符牒型としての強い機能を有する。前者はエゴが弱いのでこれらの機能は薄い。

以上、文化平等主義の観点から新生人工言語を２点見比べた。新生人工言語は特定の文化風土を参照とする言語なので、平等主義でなかろうと一向に構わない。日本を参照にすると明言した上で言語を作れば新生人工言語にはなる。文化を規定しているので学習者はその文化についての既存の参考資料を使うことができる。新生人工言語は文化平等主義の方法を使わない限り特定の文化に依存してしまう。しかしそれは普及型の理念に反する。では普及型が取りうる新生人工言語は無いのだろうか。その返答としてあげたのがたとえば文化平等主義による新生人工言語である。

21世紀になってますますグローバル社会が実現していくにつれ、文化差が意識されるようになった。言語の普及は力関係でなされるので、いかなる人工言語も英語の代わりを務めることはできない。だが普及以外の観点、特に哲学的思想や芸術的嗜好の面で見れば人工言語は機能を有する。ネットなどの情報網や飛行機などの交通網によって狭くなった現代は、かつては存在しなかった諸学門の新たなデータまでも利用できる環境にある。

こうした中で、現代は新たな種類の人工言語が生まれることが推測される。また公開手段も従来の自費出版からネット公開などに変わり、旧態は劇的に変わるものと考えられる。グローバル化したせいでかえって意識してしまった文化の違いを哲学・芸術上の問題としてどう解決するか。これが現代における人工言語学の展望であろう。

はっきり述べる。 21世紀の人工言語は17世紀・20世紀の焼き増しには留まらない。当時無かったものが現代には在り過ぎる。これだけ異なる環境でただの焼き増しに留まるというのであればそれは早計である。時代は動く。歴史は繰り返す。

だが学問は常に進歩している。    </description>
    <dc:date>2009-11-06T13:35:44+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/44.html">
    <title>類型的分類</title>
    <link>http://www1.atwiki.jp/lideldmiir/pages/44.html</link>
    <description>
      フンボルトらの分類によると言語は類型によって膠着語・屈折語・孤立語・抱合語に分けることができる。ただし、言語はふつう綺麗に分類されることはない。英語は屈折語といわれるが、&quot;Mary loves John.&quot;における格表示は孤立語的手段で表される。「完全な～語」というものはおよそ稀で、ある部分では膠着語だがある部分では屈折語といったように組み合わせられるのが通常である。それでもこの分類は有用で、ある言語が最も強く持つ性質が屈折語であれば、少し膠着語要素が混じっていても屈折語と分類してよい。人工言語についても同様で、これらの類型的分類が存在する。また自然言語と同じく複数の性質を同時に持つ。

エスペラント以降の人工言語は自然言語に比べ、膠着語を好み、抱合語や屈折語を選ばない傾向にある。エスペラントは西洋語からできているが、英語やフランス語やラテン語に比べると膠着の度合いが極めて高い。代名詞をみると英語がI, my, me, mineと屈折するのに対し、エスペラントは名格と対格の２種しかなく、対格は名格に接尾辞-nを付けることによって膠着的に表現される。

また、イド語は主格・属格・対格がある。このうち主格が無標で、他の２つは主格に接辞を付けて表す。１人称の主格はmeであり、その属格はmeaであり、対格はmenである。 -a,-nの接辞は他の人称にも規則的に膠着し、２人称では順にvu, vua, vunである。

普及型は学習が容易になるように設計される。その普及型が膠着を選ぶということは、膠着が言語のシステムを作り学ぶ上で最も単純なシステムであることを示唆している。では実際にそういえるだろうか。屈折の場合、Iがmeになり、heがhimになる。この場合、都合４つの単語を無規則に覚えることになる。ところが膠着を利用したエスペラントではmiはminになり、liはlinになる。接尾辞-nを付ける規則があるため、覚える語数が減少する。膠着手段は規則を作るため、覚えなければならない事項を減らし、類推によって未知の単語を知ることができる。そのため学習に便利であるといえる。

孤立手段は接辞さえ必要としないため、より学習が容易なように思われる。しかしそうではない。孤立手段とは言い換えれば統語手段のことである。語順を操作して得られるヴァリアントな構文の数は、接辞として使える音節数より圧倒的に少ない。また、語順をあれこれ操作することによって構文が際限なく増えてしまうのも問題である。更に、語順を変えると文意を認識しづらくなってしまう。たとえば文の最後の単語まで聞き終わらないと最初の単語の文法的意味が決定できなくなるといったことが起こりうる。最後の単語を聞くまで文を頭から全て覚えていないといけないというのであれば、その言語は非常に学びづらく使いづらい。そのため、孤立語手段は限定的に利用されることが多い。

最後に抱合だが、これは屈折の極みである。屈折が膠着より学びづらいならば抱合は更に学びづらい。また、抱合は単語の区切りが分からないため、辞書形を定めるのが困難である。仮に辞書形を定めても学習者に辞書形を覚える労力を要求し、辞書を引くにも手間をかけさせる。

このような理由で一般に普及型では膠着語が好まれる。逆に普及型でない言語は膠着を選ばず敢えて屈折や抱合を選ぶということがある。ただそういった研究型であっても、複雑な屈折を持つものはあっても、複雑な語順規則を持った孤立語という選択肢が選ばれることは少ないようである。実際にそのような言語を考えることは可能である。
たとえば語順だけでその名詞が劣等最上級になるような言語――つまり語順にleastの意味を背負わせる言語――は人工言語なら可能だろう。同じく、語順だけで父が祖父になったり娘になる言語も人工言語ならありえる。

普及型が膠着手段を採用しやすいのは事実であるが、あくまで頻度の問題であって、必ずしもそうではない。たとえばインテルリングアは普及型ではあるもののエスペラントと違い自然派に属する。インテルリングアはアングロ・ロマンス語を主として流入する。たとえばインテルリングアにおける人称代名詞（pronomines personal）は参照言語から流入されたものだが、これはエスペラントと違って屈折する。一人称の単数形の主格はioであるが、対格はmeになる。対して、複数になると主格はnosで、対格もnosのまま変わらない。

屈折する上に規則的でないという点で学習しにくいが、西洋人のドゥリンチェコなどから見ればインテルリングアの代名詞は文字通り「自然」であり、自然派の名にふさわしい。だが非西洋人の目から見ればその「自然」というのは「違和感のない」という意味ではなく、単に「自然言語の」という意味で捉えられるものである。西洋に偏重しない中立な人工言語学においてもインテルリングアの自然性は「自然言語の性質を持った」という意味で捉えられるものである。

エスペラントとインテルリングアのどちらが優れているかということを思い浮かべる者もいるだろう。優秀さの評価は自然言語の研究にはご法度だが、人工言語学ではある分野において寛容される。自然言語と異なり、どこまで内容が作りこまれているかといった習熟度の違いがある。

また、人工言語は何がしかの作られた目的を持つが、その目的をどれだけ達成しているかでも優劣を評価できる。

エスペラントとインテルリングアはどちらも普及型であるから簡便な構造を持っているが、学習のしやすさというのは学び手によって異なる。東洋人には図式派のエスペラントのほうが学びやすいが、西洋人には規則的すぎるエスペラントより自分の母語に近い性質を持ったインテルリングアのほうが学びやすいと考える者もいるだろう。普及の対象を西洋或いは西洋に感化された地域に限定するのなら両者に学習上の大きな違いはないが、裾野をアジアやアフリカなど世界にまで広めるなら話は別である。日本人にとってはインテルリングアの自然さは英仏の代名詞の混沌さに見えるため、学習はエスペラントのほうが容易である。この代名詞の話を例に取ると、覚えねばならない形態素の数はインテルリングアのほうが上である。但し、この話は代名詞の曲用を例に取っているだけであるから、インテルリングアのほうが全てにおいて学びにくいというわけではないことを付け加える。    </description>
    <dc:date>2009-11-06T13:23:14+09:00</dc:date>
  </item>
  </rdf:RDF>

