新生人工言語論

普遍言語

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フランシス=ロドウィック。17世紀に人工言語を作成。主な資料は『共通の文字』A Common Writing(1647)など。

ロドウィックで最も取り上げるべきことは語根が名詞からではなく行為から作られるという点である。 to drinkを表す語根記号が根底にあり、その字に付加記号を付けることによって名詞や形容詞などを派生させる。簡単にいえば多くの言語が名詞ありきであるのに対し、ロドウィックは動詞ありきである。たとえば「飲む」をδで表すとし、動作主を¬のような記号で表す。したがってδ=「飲む」であり、δ¬=「飲む人(drinker)」となる。¬以外の記号も存在し、それをδに付けることによって今度は「酔っ払い」や「居酒屋」などを派生することができる。酔っ払いは「δ+性質記号」、居酒屋は「δ+場所記号」で示される。

文字は先験要素も持った後験文字である。飲むという記号がδのような形をしていたり、loveの語根がLのような形をしていることからも明らかである。また付加記号もヘブライ語などを参考にしているようである。

ロドウィックは行為ありきの言語であるが、行為化できないものはどうすればよいのだろうか。たとえば副詞、前置詞、接続詞、感動詞などである。これらについては語根に付加記号を付けて表すという方法で整合性を持たせている。但し固有名詞は自然言語で書くことになっている。

「飲む」はいいとしても他の名詞はどうか。神のような語は行為から作れそうにない。これについてはto exist(to be)から派生しているようである。このおかげで覚えなければならない語根数は非常に圧縮されている。

欠点は少し文字を間違えただけで一瞬にして意味が変わってしまう点。基本的に五線譜の上に文字を書いていくのでかなり書くのに気を使う。ならびに背景となる五線譜が文字を横切って走っていくため、美観を損ね、同時に認識を悪くしている。また、語根が少なかろうと結局漢字を覚えるのと似たような苦労を強いられる点。動詞から名詞を作る際の意味が恣意的で、ロドウィック式の思考を一々覚えねばならない点など。

文法は英語のものである。辞書については英語と普遍文字の対訳辞書を作ろうとしたが、結局実現されなかった。ロドウィックの人工言語は英語を参照言語にした後験語であるといえる。尚、文字はLがloveに近いようなことからアルファベットを基にした字であることは分かる。だが変形が激しく参照元が分かりづらいため、先験性を多少帯びている。

さて、ロドウィックの人工言語を見てまず気付くことは何か。徹底した語彙圧縮を行っている点である。覚えなければならない事項を減らすという姿勢は既にこのころの普及型に見られるものである。ロドウィックがこうしたのは覚えづらいという批判に対してというのも確かにある。だが実際はそれだけではなく彼が言語を考案した背景に記憶術があったことが関与している。普遍文字はその汎用性だけでなく、記憶術の応用としての作例でもあった。

言語を作る場合に、普及型だと特に覚える事項数が気になる。多ければ多いほど学習者の負担が増え、広まりにくいと考えられるからである。そこで作成者はどうにか事項数を減らそうとする。ところがその方法は非常に限られている。たとえば何種類もある花の名を覚える際、それらが系統だった名前をしていれば覚えやすい。だがパンジーやアジサイやバラなどといった何ら規則を見出せないものは覚えにくい。そこで作者は花なら花で分類していく。たとえば花は植物の下位概念で、パンジーの上位概念である。このように分類を用いることによって単語が整理されるため覚えやすくなる。その結果、極端な話をすればアジサイはパンジャーでバラはパンジョーといった風になる。覚える事項は減るかもしれないが、かえって混同して覚えにくく、使い勝手は更に悪い。だがこの時代の作者は基本的にこういった分類に頼っていた。

元々この分類というのはアリストテレスの範疇論に由来している。先験語の走りとなった哲学的言語の思想の源流となるアリストテレスの範疇は普遍言語を作るには頼りないものであった。アリストテレスは実体・量・時間・場所・位置・性質・状態・関係・能動・受動という10のカテゴリーを挙げた。これは認識ではなく存在から見たカテゴリーである。また能動や受動というのは何かの分類とは考えにくく、むしろ文法上の概念であろう。このカテゴリーの非成熟度は哲学ではカントのような批判者を生んだが、人工言語学ではウィルキンズのような批判者を生んだ。ウィルキンズはアリストテレスのカテゴリーと比べると遥かに細かいカテゴリーを唱え、また実際にそのカテゴリーを作成した。

ウィルキンズは自然物や空間を細かに分類し、それらに普遍文字を付与した。

万物を分類し、その概念に音と文字を充てることによって人工言語を作る。この哲学的言語の手法は多くの人工言語作成者に影響を与えた。 17世紀に確立した人工言語作成の手法であるが、その後現代にも引き継がれている。趣味で言語を作るものも普及を目指して作るものも、先験語を作ろうと思い立ったときはまずは万物を分類するという手法に行き着く。

ところが万物の分類を前提とする哲学的言語には欠点があった。ここでは2点挙げよう。1点は万物を分類するのは極めて難しく、またそれを覚えて実用するのも難しいということである。抽象的概念を分類するのは難しいし、まだ科学的に分類がなされていない植物を何類に分類すればいいかわからないという問題がある。更に科学が発達した現在で万物を分類するのはおよそ不可能である。科学の概念や産物は分類が追いつかない速度で作られるし、新発見が新たな分類項を生むことも考えられる。それゆえ、万物を分類すること自体が極めて難しいと考えられる。よしんばできてもその分類は恐ろしいほど細かいだろうから規則を覚えきれない。

よく口上に挙げられる「理性によって一意的に単語を生成できる」のは誤りである。最初はそのように意図して作っても恣意的に作らざるをえなくなる局面に遭遇し、結局学習者はその恣意性をひとつずつ覚えねばならない。また規則付ければ規則を覚える労力が掛かる。実際自然言語を覚えるのと手法が異なるだけで労力は大差ない。実用するには常に重い辞書を持って歩かなければならないことになるし、実際ウィルキンズに当てられた批判も将にこれであった。因みにウィルキンズの分類はアリストテレスのものよりは細かかったものの、万物を表すに十分なだけ細かかったわけではないことを付け加えておく。

もう1点の欠点は簡単にいえば万物の概念の分類の仕方は人類に共通ではないという点である。概念Aは誰にとっても同じ質を持った概念Aではない。概念Aの外延は人によって或いは集団、民族によって異なる。言い換えれば、概念はそれぞれ内包が個別に定義されるものではない。この考えが直接言語に関わる形で現われたのは19世紀、ソシュールの時代である。

以上は哲学的或いは科学的な欠点であるが、人工言語としての実用面ではどうか。同じ分類に組み込まれた同属概念は互いに似た文字になりがちで誤解を受けやすい。また、分類が系統だっているため、それを表した普遍文字もまた系統だちすぎていて、少しでも字形が狂えば意味が取れなくなってしまう危険性を孕んでいる。以下に見ていく人工言語の多くも同様の欠陥を持つ。

ジョージ=ダルガーノ。『記号術』Ars signorum(1661)など。

スコットランド出身だが大半をオックスフォードで過ごす。ウィルキンズとの関連があり、創作物も基本的に類似している。ダルガーノがウィルキンズに剽窃の疑いをかけたことで関係が悪化。多くの識者はウィルキンズ寄りだがライプニッツなどはダルガーノ寄りの考えである。

ダルガーノは話し言葉としても用いられるよう言語を設計しようとした。そこで音声学的な分析を用いて人間の発声に最も適した音を探した。その考えに基づいた結果、発音をしやすくするための母音を挿入している。この母音に分類上の意味はない。したがって分類記号としては認識しづらくなっている。

彼もまた分類に頼って言語を構築した。分類は階層式になっており、そのうち17のカテゴリーを基本的な類と呼んでいる。たとえば「存在物」「実体」「人工物」などが挙がっている。基本的な17個の類は横並びになっていない。存在物が出発点で、その下位に「具体的で合成され完全な」ものと「抽象的で単純で不完全な」ものがくる。このうち前者は基本的な類である。したがって基本的な類同士が階層構造を持っている。これはウィルキンズの類も同様である。

尚、基本的な類には17種の大文字が付いており、たとえば頂点の「存在物」はAである。使われる大文字は A, I, E, H, U, B, D, P, S, K, G, T, Y, O, N, F, M である。 17類の下には更に中間的な類がある。

この類は小文字で表す。たとえばP(感覚のある)の下位にはo(主要な感情)がある。更にその下には種がある。たとえばoの下位には喜びや怒りなどがある。ではこれらの種はどう名付けるのかというと、基本的な類のPと中間的な類のoにそれぞれの種差を表す子音を付けて表す。たとえば喜びはpobで怒りはpodである。この問題点は種差を表す子音が何であるか予測できず、一々覚えねばならないということである。希望というのも同じ種に存在しているのだが、これが「po~」であることは分かっても次の1字が予想できない。因みに希望はpofである。また言語の運用時に同属概念が最小対語になるため、聞き間違いの恐れが常につきまとう。ただこの問題を解決する方法もあり、 pobなどの哲学的記号をラテン語に訳して読めるようにラテン語の対訳を著書に付している。

ダルガーノも記憶術の流れを汲んでいるため、語彙の圧縮を行っている。たとえばRはエスペラントの接頭辞mal-と同じく対義語を作る。このRのような語彙の圧縮に使う字がいくつか用意されてはいるものの、ダルガーノの分類は運用するには覚束ないものであり、覚えるにも恣意的要素が多すぎて覚えづらい。また彼の分類はこのようにCVCで終わるものばかりではない。 CVCから成る音節数はかなりのものだが、分類に基づいているので可能な音節の全てを使うことはできない。分類によって命名をすると下位概念に行くほど分類が細かくなり、命名が長大になりがちである。

abhorrere(<L abhorreo 尻込む、嫌悪する、ぞっとする。英語ではabhorに残る)を見てみるとダルガーノはこのラテン語をprebesu sumpren, trofと訳している。なるほどpから始まるので感覚であることが分かる。eが来るので内感であることも分かる。確かにこれは主要な感情ではないのでoではなかろう。そしてrがeの前に来ているので反意を表すということも分かる。少なくとも始めの3字以内で「感覚に関し、内的なもので、反意」という情報が分かる。しかしその後更に情報が付加されてprebesuとなるため、都合かなりの情報が付加されることになる。単語を発しながらその感覚そのものについて辞書的に説明しているようなものである。これを覚えて同属の単語と区別して使うのは面倒かつ難解である。そもそも効率的に覚えるには彼と同じ命名観を持たねばならない。理性で判断して皆が皆同じ命名に至れば問題ないが、そのようなことは現実にはありえない。

尚、彼の辞書は事実上未完という形で閉じている。彼が命名しなかった概念については使用者側が新たに作らねばならない。しかも音素に法則性はない。 eはPの下では内感を意味するが、N(物理的な)の下にあるk(陸生の)の下では「ひづめの裂けた」という意味になる。同じ音素が何を表すかは相対的に決まり、法則はない。したがって未定の単語を命名すると、人ごとに一致をみない。ダルガーノの分類が覚えにくいことは間違いないが、彼の分類はライプニッツらと比べると人間的で文化を彷彿させる。その点で人工言語としては興味深い。このような命名法だと馬や騾馬は何と命名すればいいのか分からない。あまり細かく種差を分けていくと馬ひとつ表すのに物凄く膨大な記号数になってしまう。そこで恣意的というよりは彼のセンスに基づいた命名がなされている。たとえば馬も騾馬もひづめの完全な動物に属するが、これらの違いは馬が「勇敢」、駱駝が「欠如した性」の違いで表される。馬について「勇敢」という哲学的分類には沿わない主観的な命名をしている。ここに彼の、ひいてはスコットランド或いはイングランドの文化や価値観が見え隠れしている。

ダルガーノの分類は哲学的に未熟であったがゆえにかえって命名に関しては後験性の強いものになっており、今日の人工言語に繋がるところがある。彼のこうした命名方法は長所にも働いている。彼は同じものであっても観点が違えば命名も異なってよいとしているため、馬を「勇敢」以外の種差で表しても良いことになる。このことを応用すればたとえば文化によって異なる「神」の存在も文化に応じて表現しわけることができる。たとえば一神教の神であるとか多神教の神であるといった具合に。尤も当時のキリスト教圏に生きたダルガーノ本人が神についてそのような多解釈を認めたかどうかは疑問であるが。それでもこの異なる解釈で同じものを表現できるというシステムは今日の人ピクトグラム系の人工言語に通じるものがある。

ダルガーノの統語論は語順が重要な孤立語的言語であり、当時の哲学言語の拠り所であったラテン文法の屈折を捨象している。因みにその語順はSVOである。また品詞性についてはロドウィックと丸逆で、ほぼ完全に名詞しか持たない(代名詞が認められる程度)。他の品詞は名詞から派生させ、前置詞も名詞として分類枠の中に収めている。

ジョン=ウィルキンズ。『真正の文字と哲学的言語に向けての試論』 An Essay towards a Real Character, and a Philosophical Language(1668)など。

ロイヤルソサイエティ初代書記長。元々はダルガーノに呼応し、分類表を作ることについて助力を申し出たが、ダルガーノは自分のほうがより簡単なものを作れると言って拒絶している。結局これを契機にウィルキンズは自己の言語を可能にする分類表に着手した。その方法は要するに百科事典的であり、言語を作るというよりは百科事典の項目やシソーラスを作るようなものであった。このような計画においては人手が必要なため、ロイヤルソサイエティでの権限を利用し、同僚や友人に協力を依頼した。たとえば植物の分類表はジョン=レイに任せ、動物の分類表についてはフランシス=ウィラビーに任せるといった様子である。その他、航海術などの分類も委託した。まるで現代において百科項目を分野ごとに作らせるような手法である。

ウィルキンズの人工言語において特筆すべきは彼に味方する学会由来の大きなコミュニティが存在したということである。他の研究者が主に個人で作業をしている間に彼は助力を得て作業をしていた。ロイヤルソサイエティでの地位がそれを実現した。人工言語の普及や研究に関して言語そのものの出来よりも社会や経済の状況のほうが重要だという好例である。

ダルガーノが剽窃を疑ったことからも分かるとおり、基本的に2人の考察は類似している(実際剽窃ではなかろうが)。彼もまた概念を分類した表を作っている。その表はやはり未完のまま閉じている。そして長大で覚えにくく、恣意的であることを逃れられない。また、たとえ科学的な分類を行ったとはいえ当時の科学力なので現代から見れば疑問を感じる分類も存在する。更に当時の文化や社会を反映した分類になっている。たとえば「教会の」という概念は公的な関係に分類されている。キリスト教を反映してか、創造主というカテゴリーが堂々と存在している。ならびに「ヨーロッパの」に対するカテゴリーは「異邦の」であることからも、社会・文化・風土が背景になっていることが分かる。

また金属や石が「植物性」の下位概念の「不完全」に属するのも興味深い。ただ、これを以って金属を植物として見なしているとはいえない。「植物の」は「感覚のある」の対の類になっている。だからむしろ「感覚がないもの」――現代でいう無生物や無機物――のように見なすのが自然であろう。「植物性の」はvegetativeで、「感覚のある」はsensitiveである。 vegetativeは現代医学では「植物人間」などでも使われる単語で、これはalive but showing no sign of brain activity(OALD 7th Edition)の意味も持っている。時代は錯誤するものの、vegetativeには元来日本語の植物と異なる語義イメージがあり、植物のように静的で無生物的なものというニュアンスがある。ウィルキンズのvegetativeも恐らく「活気のない」とか「感覚のない」などといった含意を含んだ上での「植物性の」であろう。したがって石や金属がこの類に属すことはおかしいことではないと考えられる。

「ヨーロッパの」や「創造主」などのカテゴリーを見ても分かることだが、ウィルキンズの分類は非キリスト文化を始めから考慮していない。ウィルキンズは各民族が母語で普遍文字を読めるようにするというスローガンを掲げていたが、分類表を見る限り文化の差異についてまでは考慮していなかったようである。たとえば感情はどの類に属するだろうか。emotionalという類がないため、spiritualの下位であろうと推測される。「精神的な」の類は「神」と「理解・意思・嗜好や興味に関した精神」に分かれる。そして「嗜好や興味」は「愛着や感情と称された行為のことであり、単純と複雑に更に分けられるもの」と定義されている。愛や悲しみなどの感情はこの中の「単純」に含まれている。名詞が基本なのでsadではなくsadnessなどの形で含まれている。結論として感情はspiritualの中に取り込まれている。そして興味深いことに精神活動は感情だけでなく神の所業も含めている。ウィルキンズによれば創造も絶滅もここに加わる。しかも神の所業という超越的な行為は生き物に収束するとある。人間の感情と神の所業を同じ精神活動に振り分けている点と、更に創造や絶滅や生き物が神の所業であるという2点から強くキリスト教思想が伺える。その反面、異教や異文化の神話などは考慮されていない。このようにキリスト教の世界の切り方をしているため、ウィルキンズは異文化の世界の切り方には対応していない。

ウィルキンズはダルガーノと違って大きな助力を得ていたため、分類が非常に細かい。基本的な類だけで40個あり、ここで既にダルガーノの類より多い。シソーラスとしては優れているかもしれないが、言語として実用するにはかなり分厚い辞書を持ち歩いて高速で引く技術を要するので実践的とはいえない。ダルガーノとの基本的な違いはその種類の多さにある。 40個の類から251個の種を作り、更にその種差から2030個の種を作る。

ウィルキンズはダルガーノと違い、完全に先験的な文字を作った。横棒や縦棒に飾りを付けて細かな意味を表していくものである。一見するとアラビア文字のように見えるが、後験性はない。分類の基本的な構造は3段階で、類・種差・種である。類は子音+母音で示される。種差は子音で表される。最下位の種は母音で表される。子音はBDGPTCZSNの9種で、母音は7種に二重母音2種を加えたものである。たとえば「行為」という分類の下にある「肉体的」という分類はウィルキンズの扱いでは「類」として扱われ、 Caの音価が与えられる。またこれを表す文字は水平線の下に小文字のcを付けたようなものである。「肉体的」が類であり、その下の分類には「感覚の」「理性の」などがある。更にその下の分類には飢えや乾きなどがある。ところで「感覚の」はsensuousではなくsensitiveになっている。 sensitiveはふつう「敏感な」の意味である。 1392年にはこの意味で英語に流入しているので一見おかしいが、 15世紀以前にスコラ哲学でanima sensitivaのような例で使われ、「感覚に関係する」という意味で使われていたようである。よって17世紀のウィルキンズは哲学的分類としてあえてsensitiveを使ったと考えられる。

尚、類はCVから成り、種差には子音が付され、種には母音が付される。したがって類・種差・種を通るとCVCVのような音節ができあがる。分類表の同じ階層が必ずしも類になるとは限らないので注意。分類表では「関係」の下位概念は2つに分岐し「私的」と「公的」に分かれている。そして私的は財産などに細分化され、公的は司法的などに細分化される。「関係」「私的」「財産」の間には3段階の区分があるが、これを以って安易に類・種差・種と認定することはできない。「関係」は「私的」「公的」に分岐しているにもかかわらず、この区別は事実上無視され、「財産」も「司法」も同じ区分で扱われる。しかもウィルキンズの分類によればこの段階で初めて類になっている。たとえば「財産」はCyという類であり、「司法」はSeという類であるとされる。

品詞についてであるが、ダルガーノ同様ウィルキンズも分類表を利用したため、どうしても発想がモノに行きがちである。即ち名詞が基本となる。上述のsadnessなどが好例である。そしてダルガーノと同じく関係や行為まで名詞と捉えて分類表に含めてしまう。文法的には繋辞+形容詞で動詞を表す。点・丸・線などの小さな記号で法や時制などを示すとともに代名詞、冠詞、感動詞、前置詞、接続詞を表す。数、格、性、比較級はそういった記号ではなく種差として表す。文法的にいえばダルガーノのものより英語の要素を明白に引きずっているといえる。冠詞、数、格、性、比較級などを見るに、西洋語の性質をそのまま残している。統語についても英語が参照言語である。よって文法的には後験性が強い。

語彙については分類を用いている上、その音価が機械的に付けられているため、先験語である。だがやはり彼にもダルガーノと同じく命名に文化や風土や物の見方が見え隠れしている。たとえば声+狼で「遠吠え」や「叫び」を表す。狼がいない地域のことは考えていない。実際ウィルキンズが挙げている動物は西洋でよく見られるものである。ダチョウなどはありえない。一方、息子をオスの子供、娘をメスの子供というように捉える点では先験的である。これは語彙圧縮や文字の規則化の一例であるが、ウィルキンズ自身は哲学的観点を強調している。

ウィルキンズで最も特筆すべきはその分類の細かさと、それを可能にしたコミュニティ、及びそれを表記する先験文字であろう。記号の組み合わせとはいえ、その文字の種類は莫大な数に及び、我々が漢字を覚えるのと大差ない学習を利用者に強いるものである。普及させるには注文の多い言語であるが、その分類の細かさと文字種の多さは目を見張るべきものである。

ライプニッツ。1678年に一般言語(Lingua Generalis)を作成。

ウィルキンズやダルガーノはデカルトやライプニッツと一線を画す。分類(或いは分析や分解)という手法を用いる点では両陣営とも共通している。しかしウィルキンズらが既に現存しているものを観察して考察して分類しているというトップダウン方式を用いるのに対し、ライプニッツは最終的には演繹的な算出をするというボトムアップ方式を取っている。俗にウィルキンズが分類魔だとするならば、ライプニッツは計算魔であった。算出することの利点は現在は存在しないが将来的には現われるかもしれないものを演繹のシステムに基づいて算出できることである。その意味でライプニッツのシステムはむしろ未来に向いて開いているといえる。一方、ウィルキンズらの分類を開いているという向きがあるがそうではない。ウィルキンズらの分類は未完のまま閉じてしまっているのである。或いはせいぜい学習者が自ら残りの単語を命名しなければならないという意味でしか開いていない。続きはファンが書いてくださいという小説に似ている。これを開いていると但し書きなしで認めることは不自然である。

ライプニッツは自然言語のヴァリエーションを肯定的に捉えており、アダムの言語に対して否定的であったし、ウィルキンズらの普遍言語についても同様であった。ただ彼が後世数学で有名になったことからも推測されるとおり、彼には数学的な性向があった。命題が真であるための条件を割り算で表現したりしていたことからも伺える。また、彼は自らの普遍言語について計算の重要性を確信していった。彼によると計算で算出するのは命題であって数の意味ではない。記号論理学への兆しがこのあたりからも顕著に見え隠れしている。そして彼は記号計算を最終的なアダムの言語と捉えるようになる。

これらの点でライプニッツはウィルキンズらとは相当異なっている。それは未来の歴史を見ても分かることである。ライプニッツの記号論理学や普遍言語はその数学的性質からコンピュータ技術などに応用された。特に『二進法算術の解説』で考案した二進法の表記法はコンピュータに使われる0と1のブール数にほぼ相当する。プログラム言語は広義の人工言語であるが、これが人工言語といわれてエスペラントなどと区別されないのは、実はプログラム言語が歴史を遡っていけばこうしたライプニッツのような思想に辿りつくからである。一方、ウィルキンズらの分類はそのシソーラスとしての価値を認められ、その精神は今日の百科事典に応用されている。大別すればライプニッツが理数系の人工言語への分かれ道を作っていったのに対し、ウィルキンズらは人文系の人工言語を進んでいったともいえる。

さてそのライプニッツの数学的な哲学言語であるが、まずいわゆる分類を行い、項目に数字を当てる。そして数字を子音に置き換えるという方法である。まず概念を数字で表した後に音素を当てるという方法である。ここで使われる数字は10進数で、百の位、万の位などといった位の概念は母音で表す。1から9まで順にb, c, d, f, g, h, l, m, nが当てられる。位については一、十、百、千、万の順でa, e, i, o, uを当てる。したがって12,345はbacedifoguを書き換えられる。位は母音が表しているのでこれをgufodicebaと置換しても構わない。

元々ライプニッツはウィルキンズのように話せて実用できる言葉を目指しており、普遍的な百科事典にも興味を示していた。実際ラテン語を簡単にしたような言語案も練っていた。ところが計算によって自由に命題を算出できる演繹システムを試みてからはもっぱら数学的な言語に没頭していった。
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